(7)盧溝橋事件を拡大させたコミンテルン指令と日本人虐殺事件

 盧溝橋事件そのものは国民党政府軍の宋哲元が、正式陳謝し、責任者を処罰し、部隊を撤収させることで解決(現地協定)をみていた。
 ところが事件を機に日中間の全面衝突に発展させようとするソ連・コミンテルンの策動が行われた。
 すなわちソ連・コミンテルンは次のような指令を発したのである。
 「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。日本への譲歩に依(よ)って、支那の解放運動を裏切ろうとする(中国人)要人を抹殺(まっさつ)してもよい。下層民衆階級に工作し、・・・・国民政府をして戦争開始のやむなきにたち到らしめなければならぬ。党(中国共産党)は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。紅軍は国民政府と協力する一方パルチザン的行動にでなけらばならぬ。」(興亜院政務部興亜資料政治篇「盧溝橋事件に対するコミンテルン指令」)と。
 この結果、7月25日、北京から75キロ離れた郎坊(ろうぼう)にて、日本軍に対し、突如中国兵が小銃、機関銃を乱射してくる事件、次いで北京の広安門から北京城内に入城する日本軍に対して、中国側から突如襲撃が行われる事件が起こり、日中間は戦争状態に立ち至ったのである。
 さらに広安門事件から僅(わず)か4日後の7月29日、通州にて非戦闘員である日本人男女子供が虐殺される事件(通州事件)が起こった。
 通州の中国保安隊が蜂起(ほうき)して、日本の警察分署、旅館、出張所、食堂、民家を襲撃したのである。
 保安隊員は小銃、青龍刀をふりかざして次々に虐殺行為に及び、ある人は数珠つなぎに処刑場に連行され、虐殺行為を受け、殺害された。
 殺害された人は223人にも及び、そのうち34人は性別不明なまでに惨殺された。
 この事件をきっかけに、日本国民と日本軍の間には激しい怒りが支那側に向けられることになり、日中間で対立が極度に激化したのである。
 これはコミンテルンが発した「あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ」という指令がまさに現実化していったことにほかならない。


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