対日経済封鎖に直面していた日本と南部仏印進駐
―自由貿易を確立するための日本の戦い

昭和5(1930)年 7月 アメリカにおいてスムート=ホーレイ関税法が成立する。これはアメリカ国内市場から超保護関税政策によって外国製品を排除しようとするものであった。(アメリカのブロック化)
昭和7(1932)年 8月 オタワ会議によって、イギリス帝国(イギリス本国及び自治領・植民地)はイギリス帝国外からの輸入品に対して保護関税を設けることを決定。(英帝国徳恵関税制度)これによって、イギリス植民地であるマレーシア、ビルマに対する日本の輸入が抑圧されることになった。
昭和8(1933)年 4月 イギリスが、その植民地であるインドへの日本製品の輸入を抑制する目的で日印通商条約の廃棄を日本へ通告。これによってインドに対する輸出もまた抑圧されることになった。
6月 オランダ政府が緊急輸入制限法を成立させ、蘭印(オランダ領インド)に対する日本製品の輸出を差別的に規制。これによって東インド(インドネシア)に対する輸出が制限されることになった。
昭和9(1934)年 アメリカ、互恵通商法を成立させる。これは締結相手国と相互に関税引き下げを行うものであったが、日本は対象外とされかつその対象国はラテン・アメリカ諸国が多く、事実上南北アメリカをアメリカ主導の経済ブロック化するものであった。
5月 イギリス、イギリス植民地(インド、ビルマ、マレーシア)向けの日本製綿布・人絹に対して輸入制限を実施。
6月 蘭印(インドネシア)において、日本製綿布に対する輸入制限を実施。
昭和10(1935)年 8月 アメリカ、植民地であるフィリピン向けの日本製綿製品に関する輸入制限を実施。
昭和12(1937)年 1月 イギリスの自治領オーストリアにおいても、日本製綿布・人絹に対して輸入制限が実施された。

 日本が大東亜戦争を決意した理由としてよく挙げられるのが対日経済制裁網、いわゆるABCDラインである。
 しかし以上の年表に明らかなごとく、それよりはるか以前の昭和5(1930)年から昭和11(1936)年にかけて、換言すれば満州事変から支那事変に至る間、日本は欧米諸国による国際的な差別規制に直面していたのである。
 これがどれだけ日本に打撃を与えたかは、昭和元(1925)年から昭和12(1937)年までの12年間の日本の主要貿易諸国への輸出シェアの趨勢(すうせい)を見れば明らかである。
 アメリカ向け輸出が日本の総輸出の42%から20%へ、また中国本土向けが20%から5%へとそのシェアを激減させ、香港、フランス、カナダ、フランス領インドシナ、オーストリア、イギリス領マラヤ、エジプト、ドイツへの日本の輸出が衰退または停滞しているのである。
 これらの国々向けのシェアは、昭和元年の時期に日本の総輸出の73.7%と約4分の3を占めていたものが、33.7%へと縮小した。
 またイギリス領インドやオランダ領インドネシア向けの輸出も、昭和7年前後までは増加したものの、その後はやはり低下し続けている。(ガット[関税貿易一般協定]事務局経済分析官を経験した池田美智子氏の著「対日経済封鎖」に基づく)
 すなわち昭和12(1937)年の支那事変勃発に至る経緯において、日本は、欧米諸国及びその植民地・属領の多くに対して輸出制限を余儀なくされたと氏は述べているのである。
 昭和8(1923)年にオランダ領インドネシアで行われた経済交渉(バタヴィア交渉)において、オランダ代表側が日本製品を差別的に規制することは、「国際的に了承済みの事実」と発言したとされるが、まさにそれが事実であることを物語っている。
 しかもこれらに加えて、アメリカは、日本の支那事変を契機として、昭和14(1939)年1月の航空機とその部品の禁輸を始めとして次第に対日禁輸を強化し、ついに同年7月には我が国に対して日米経済関係を支えてきた日米通商航海条約そのものの廃棄を通告するに至ったのである。
 これ以後、アメリカは航空機用ガソリンを手始めとして、くず鉄、鉄鉱石、銑鉄、銅、ニッケル、亜鉛、ラジウム、ウラニウムと対日禁輸をあらゆる分野で強化していった。
 この日米通商航海条約廃棄の歴史的重要性について、アメリカを代表する外交評論家であったウォルター・リップマンが「1915年以来アメリカがとった行動で、これほど戦争への道を大きく歩んだものはない。」と評しているが、まさにその通りであろう。
 戦前の我が国は、毎年香川県一県分の人口が増えていたという。
 この増大する人口は貿易を拡大することによって支えていくしかないというのが日本の基本的立場であった。
 従って日本に対する貿易差別、輸出規制を取り除き、世界の自由貿易体制を確立することが国家の存命にかかわる重要問題であった。
 山梨大学の加藤陽子氏は、欧米諸国もまたこうした日本の自由貿易の復活を要求する正当性を認めざるを得なかったとして、国際連盟原材料問題調査委員会の報告書は、委員会としての共通認識を次のように確認していた。
 人口急造諸国の直面する困難は、工業化にその解決の道を見出す以外ないが、これらの国々にとって自由な原料供給、製品の販売市場確保は死活的な問題である」(軍事史学会偏「第2次世界大戦 発生と拡大」)ところが欧米諸国は、アジア植民地を最後まで自由貿易市場として日本に解放せず、かつまたその一方で日米通商航海条約廃棄にみられるごとく、かえって日本と世界との自由貿易体制を維持してきた主柱を壊す行為に出るに至ったのである。
 これ以降日本は、「最小限度の自給自足圏」を求めて、東南アジアに自由貿易体制を確立すべく、唯一最後の機会として、オランダ領インドネシアに対する経済交渉を行うこととなったのである。
 「「大東亜」の民のための「共栄圏」を形成せんとの日本の計画は、アジアを自由企業から閉め出そうというのではなく・・・・・アジア地域内での自由な人及び貿易の流通に対しての、高い障壁を打破せんとの試みであった。」(ヘレン・ミアズ「アメリカの反省」)とアメリカの識者も述べているごとく、日本が求めていたのは、アジアにおける自由貿易体制であった。
 アメリカの経済制裁が進行する中、アメリカに依存することなく経済を確立するために、日本にとってオランダ領インドネシアとの経済交渉は不可欠であった。
 すなわちオランダ領インドネシアの石油、ゴム、錫(すず)などの物資を購入することは、日本にとって経済的生命線であったのである。
 ところがオランダは、日本との経済交渉において、対日輸出制限や日本企業の進出制限の緩和を要求する日本に対して強硬姿勢を取り続けた。
 このため日蘭経済交渉は完全に行き詰まってしまった。
 フランスとの協定に基づく南部仏印進駐は、オランダ側に日本の軍事力を示すことによって経済交渉において譲歩させることを目的の1つとして実行されたのである。
 中国への欧米諸国からの支那へのルートを遮断するための北部仏印進駐、東南アジアに自由な貿易体制を求めた南部仏印進駐、これら我が国がとった2つの行動は、アメリカにとって重大な問題であった。
 であればこそそ、この日本の行動に対して石油禁輸、在米資産凍結、ハルノートを次々と対日圧迫を加えてきたのである。
 なぜアメリカにとっては重要であったのか。
 これを次に検証していきたい。

日本の輸出の国別シェアの推移(単位:%)
昭和元(1925)年 昭和4(1929)年 昭和7(1932)年 昭和9(1934)年 昭和12(1937)年
グループ A-I
米国 42 42 31 18 20
中国本土 20 16 9 5 5
香港 2 2 1 1 1
フランス 2 2 2 1 1
カナダ 1 1 0.5 0.4 0.5
仏 印 0.3 0.1 0.1 0.1 0.1
オーストラリア 2 2 3 2 2
英領マラヤ 2 1 2 2
エジプト 1 1 3 1
ドイツ 1.4 0.6 0.5 0.3 1
小 計 73.7 67.7 47.1 31.8 33.7
グループ A-II
英 印 7 9 13.6 11 9.4
蘭 印 3 4 7 7 6
ラテン・アメリカ諸国(a) 0.5 0.9 0.7 2 1.5
小 計 10.5 13.9 21.3 20 16.9
グループ B
関東州 4 5 8.5 13 12
満 州 9 4 7
英 国 2 2 4 5 5
フィリピン 1.3 1.4 1.5 1.6 1.8
アフリカ諸国(b) 4.1 6.4
小 計 7.3 8.4 23.0 27.7 32.2
その他の諸国 8.5 10.0 8.6 20.5 17.2
[ノート] (a) アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、ペルー、チリ、ウルグアイとエクアドル。
(b) 南アフリカ連邦、ケニア、ウガンダ、タンザニア、仏領モロッコ、ベルギー領コンゴ、スーダン、モザンビークとナイジェリア
(資料)大蔵省「日本外国貿易月表」などより

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