米国の東南アジアにおける経済覇権獲得のシナリオ
―それは欧州大戦勃発を機に発動された

 大東亜戦争のおけるアメリカの戦争目的に関する従来の見解はおおよそ2つに分類できる。
 1つは、原因を日本に求める伝統的見解である。
 すなわちアメリカは枢軸国の侵略に対して受動的・斬進的に、しかも参戦にいたらない方法で対応してきたが、日本からの不当な攻撃をうけて参戦したというものであり、一方もう1つはいわゆるルーズベルト謀略説と呼ばれる、欧州大戦への参戦を望んでいないアメリカ国民を英国支援のために参戦させるために日本の攻撃を誘い出し、その既成事実によって国民を戦争に巻き込んだというものである。
 しかしながらこれら従来の見解では、アメリカが日本に開戦を決意させるほどの徹底的な対日圧迫を行った理由を説明するには不十分であり、日本に対する「受動的な対応」ではなくむしろそこに米国の積極的意図を見ることによって歴史の真相が見えてくると考えられるのである。

昭和14(1939)年 9月 欧州大戦勃発
同月 アメリカ、戦後世界構想を立案するためハル国務長官の下に特別補佐官を置く。
昭和15(1940)年 3月 フランスのコスム駐中国大使、「極東においては欧州戦争の継続に伴って、アメリカが指導権と責任をとることもまた事実であり、イギリスは、この事実を承認している。」と言明。
同月 ルーズベルト大統領、ドイツに対するフランスの降伏を目前としてイギリスへの明確な援助姿勢を明らかにする。前記のコスム仏大使の発言とこのルーズベルト大統領の行動とが意味するものは、アジアに植民地を有する欧米諸国間のリーダーシップをアメリカがとることが既に英米両国間で秘密合意されていたということである。
「我々は事実上、イギリス帝国の後継者となるであろうし、そうなればその重要な部分を維持することは我々の責任である。」(アメリカ外交官ノーマン・デーヴィス)
10月 国務省がグルー駐日大使へ「もし我らのひきつづく武器供与がイギリスを援けてもちこたえさせ最後に勝たせるならば、我々は我々の選ぶままの条件と時期とにおいて極東で決着をつけるであろう」との書簡送達。これはイギリスが欧州におけるドイツとの戦争にアメリカの武器援助に支えられて勝利しさえすれば、アジアにおいては、中国問題で対立している日本に対してはアメリカ自身が最善と信じる条件と時期を選んで決着をつけ、アジアの覇権をアメリカが獲得するとの意図を示していると思われる。
昭和16(1941)年 3月 アメリカ、武器貸与法を成立させる。イギリスに対する武器援助が本格化する。
6月 アメリカの武器援助法による対英援助の見返りにイギリスが何をアメリカに提供するかに関する武器貸与基本協定の交渉が英米両国間の間で始まる。この交渉において、アメリカ側は、1930年代にイギリスが形成したイギリス植民地のブロック化を対米差別的な貿易政策であるとして、再三再四その変更を要求した。
8月 英米両国が大西洋憲章を発表。その宣言の中の「貿易や自然資源への平等な接近の原則」とは、これまでアメリカに閉ざされていた英仏両国の植民地を解放することを要求したものであった。
12月 アメリカ国務長官の下に戦後外交諮問委員会を発足させる。この委員会はこれまで特別補佐官が行っていたアメリカ主導の戦後経済秩序構想の立案を本格的にアメリカ国務省が取り組み始めたことを意味した。
昭和17(1942)年 1月 アメリカ国務省極東部長ハミルトンが、アメリカは直ちに英蘭両国と植民地問題についての意見の交換を始め、できることならば前者はインドとビルマに連邦国の地位を与えるとともに、マレー、北ボルネオ、ニューギニア等にも、従来以上の政治的経済的権利を与えるよう、そして後者も蘭印諸島に対して同様の約束をするよう、勧告すべきだとの意見書を提出。これは事実上、英蘭両国に対してそのアジア植民地をアメリカに解放することを要求することを決定したものである。
8月 アメリカのウェルズ国務長官が「恐らく最善の方法は、少なくとも当分の間イギリスとオランダに植民地を継続して統治させると共に、両国は国際機関、すなわち信託統治機関のようなものを認めて、その下で責任を負うという形にすべきである。」と発言。これは従来植民地が宗主国の自由裁量に委ねられていたのに対して、植民地に対する監督権を国際機関に委譲させ、その国際機関からの委託として統治させようとするものである。これによって旧宗主国は、事実上アメリカが支配する国際機関の意向に従わざるを得ないことを意味した。
昭和18(1943)年 9月 ルーズベルト大統領、戦後アメリカが太平洋を支配するため、日本から獲得するであろう島々以外にも必要なら英仏両国の領有している島々も米軍基地として委譲させるべく、南太平洋の調査を行わせる。アメリカは太平洋をアメリカの海とするためには他国の植民地であろうと米軍基地として使用する意志があり、ひそかに事前調査にあたっていたことを意味する。
11月 ルーズベルト、フランスの将来に関して「イギリスはフランスを第一級国にしてイギリス側につけようとしているが、フランスは少なくとも25年間は第一級の国にならないであろう。フランスに、その植民地の全部を戻すと言うべきではない。インドシナ、ニューカレドニア、マルチニク島(西インド)、ダカール(アフリカ東北岸)は戻さない」と発言。
昭和19(1944)年 3月 アメリカ国務省、植民地について、その政治的地位がどうあれ、経済的には世界秩序の一部を形成すべくできるだけ開放されなければならない、との見解をまとめる。
7月 大戦後の構想において、イギリス側は、その経済力の回復・再生のためには植民地諸国と英本国との間の特殊な結び付き、すなわち特恵関税制度に基づくブロック経済を復活させようと考えていた。これに対してアメリカ側はイギリス復興に必要な資金はアメリカが事実上支配する国際通貨基金(IMF)及び世界銀行を通じて提供することとしてイギリスと植民地との間の特殊な結び付きの復活を拒否した。
昭和20(1945)年 2月 ヤルタでルーズベルト、スターリン、チャーチルが会談を行い、国際連合の創立を決定した。これによってアメリカは、信託統治機関などを活用して英仏の植民地支配体制を弱め、この地域にアメリカが軍事的・経済的支配力を拡大することをソ連に了解させたことを意味した。

 以上、アメリカのアジア戦略を見て来たが、このことを考えるに当たっては、ルーズベルト政権の外交政策を研究したアメリカの歴史家ガードナーがその著「ニューディール外交の経済的側面」において次のごとく指摘していることが最も重要である。

(1) 国内におけるフロンティアが消滅して以来、アメリカの侵略的対外膨張主義は一貫しており、それはルーズベルト政権も例外ではない。
(2) 米国は経済的利益のために戦争の危惧を買うことにし、対英援助に乗り出すとともに戦後におけるグローバルな貿易支配を目指して大海軍と大商船隊の建造計画を指導した。
(3) ついで欧州参戦準備中及び戦争遂行過程では、英仏に武器貸与し、英仏の植民地の放棄ないし米国への開放を要求した。

 このガードナーは、アメリカでいわゆる「ニュー・レフト」という思想的立場に属する。
 しかしこの指摘そのものに重要性を認めざるを得ないのは、年表に掲げたごとき歴史事実があるからである。
 まさに「世界の植民地体制を、アメリカ経済のために開放させるのが、第2次大戦に参戦する過程で、そして戦争遂行の過程で、ルーズヴェルトが一貫して追い求めてきた課題であった」(名古屋大学・福田茂夫「第2次大戦の米軍事戦略」)というのである。
 これらの論や年表に示した様々な米国の動きを踏まえてアメリカの対アジア戦略を端的に示すならば、

第1段階 ・・・・ 中国市場の制覇を目指したアメリカはライバルと見なした日本を中国から追放するための戦略を行使した。
第2段階 ・・・・ 欧州大戦勃発によってアメリカの援助を必要としたイギリスに対して、その植民地のアメリカへの解放を要求し、イギリス植民地に関する主導権を認めさせようとした。
第3段階 ・・・・ 日本の仏印進駐(北・南)をアジア植民地体制への挑戦とみなし、欧米協力して植民地支配体制を維持しようとし、対日圧迫を強化した。
第4段階 ・・・・ 欧州大戦の勝利の実績をもって、他の欧州諸国に対してそのアジア植民地を事実上アメリカが経済的に支配できる体制の確立を認めさせた。
第5段階 ・・・・ アメリカは太平洋における海軍力及び必要基地を建設することにより、アジアにおけるアメリカの経済覇権の体制を維持強化させようと考えた。

 とそのシナリオを示すことができよう。


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