15世紀末期〜16世紀末期
地球を2分割したスペイン・ポルトガルの世界進出

(1)アジアの物産獲得のために動き出したスペイン・ポルトガル

(1) スペイン・ポルトガルの世界進出の大きな契機は、1492年のコロンブスのアメリカ新大陸の発見と、1498年のバスコ=ダ=ガマのインド航路発見であった。
 大航海によるこれらの新航路発見は、いずれもスペイン・ポルトガルが、永年にわたって推進してきた国家的大事業の結実点であった。
(2) この事業の原動力になったものは、十字軍の遠征以来、ヨーロッパ人の間に高まっていた、アジアの物産に対する欲求であった。
 当時、ヨーロッパ人は、アラビア・イタリア商人との東方貿易を通じて、アジアの物産を手にすることができた。
 なかでも香辛料は非常に珍重され最も需要が高かった。
 「豊かなアジア」というイメージを作ったマルコ=ポーロの「東方見聞録」も、このようなヨーロッパ人の欲求をかき立てるものであった。
(3) しかし、この欲求とは裏腹に、異教徒であるアラビア人の手になる東方貿易では、費用がかさみ、安全性にも乏しいという難点があった。
 ここに異教徒が支配する地中海東部を通らないで直接、アジア特にインドと交易をしようとする欲求が生まれた。
 これが、前述したスペイン・ポルトガルの大航海の直接的動機であった。

(2)地球を2分割し支配しようとしたスペイン・ポルトガル

(1) この新航路発見を機にスペイン・ポルトガルは争って通商・植民地活動に乗り出し、両国の間で発見した土地・島の帰属を巡っての紛争が続出しはじめた。
 1493年、新大陸の発見の翌年、早くもこれを調停しようとローマ教皇アレクサンダー6世が、教書を出し両者の進出領域を決めようとした。
 しかし、ポルトガルの不服により、翌年、スペイン・ポルトガルとの間で改めて会議がもたれ「トルデシリャス条約」(地図1参照)が締結された。
 これによれば、ヴェルデ岬島の西方370レグワの地点を南北に縦断する子午線(ほぼ現在の西経45度線)を、両者の進出範囲をわかつ分界線とし、この分界線の西方全域をスペインの進出範囲、その東方全域をポルトガル進出範囲とした、後に1506年、この条約の分界点は教皇ユリウス2世によって承認され、まさにキリスト教権威のお墨付きとなった。
(2) 両者の植民地獲得の勢いは、これにより一層、拍車がかけられた。
スペインは、まずコロンブスが最初に上陸したサンサルバドル島、キューバ、ジャマイカなど西インド諸島(メキシコ湾東方のカリブ海域の群島)を、我が物顔で次々と支配し、1521年にはメキシコのアズテク(アステカ)帝国を撃滅、1533年にはペルーのインカ帝国を撃滅していった。
 その間スペイン人は原住民を大量虐殺し、生き残った者もことごとく奴隷として酷使した。
 またスペイン本土よりの粗末な品物と原住民の銀とを交換して大量の銀を本国に持ち帰った。
(3) 一方、ポルトガルは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域を中心に、武力を背景として貿易を強行し、インド洋周辺にアラビア勢力を打破してインド洋の制海権を獲得していった。
 そしてアフリカの西海岸地域のギニアやアンゴラでは黒人奴隷貿易を行った。
 ポルトガル人は、スペイン人と同様に南米のブラジル地域の原住民を大量虐殺し、このために中南米の原住民人口は激減し、その労働力は底を着いてしまった。
 そこでポルトガルは、この深刻な労働力不足を補うべく、黒人奴隷貿易でアフリカから中南米に向けて多くの黒人を送り込んだのである。

(3)2つの勢力の激突地点にあった日本

(1) 東西に分かれた両国の世界制覇の波が、再び地球の裏側でぶつかり合うのは、必定であった。
1529年、サラゴサ協定によって地球の裏側において2つの勢力のぶつかり合う分界線が、両国の間で定められた(地図1参照)。
 この協定により分界線(ほぼ現在の東経135度)は丁度日本を真っ二つに分断するものであった。
 1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、相次いで1549年にスペインのフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸したのも、日本が丁度、2つの勢力の激突地点にあったことを裏付けるものであった。
(2) 当時の日本は戦国時代末期にあった。
 すなわち、国家の分裂状態の中で、日本も2つの植民地支配勢力の餌食となる可能性は充分にあった。
 しかし、これを防いだのは、織田信長の迅速な国家統一事業であった。
 当時ポルトガルから入った火縄銃を元にして、銃の改良と大量生産が行われるようになったことを背景に信長はこの新兵器を使って当時ヨーロッパにも見られなかった新戦法(3段構えの布陣戦法)を考案し、いち早い国家統一事業を成し遂げたのである。
(3) 一方、1565年、スペインは大砲や小銃で武装した300人ばかりの騎馬軍隊を本国から派遣してフィリピンのルソン島を占領し、1571年にはマニラに首都を建設してマゼランのフィリピン群島の発見を理由にフィリピンを領有した。
 これ以降、スペインは約330年にわたってフィリピンの植民地支配を続け、絹などの物産資源を大量に本国スペインに持ち帰り、原住民をことごとくカトリック信徒に改宗させた。

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