17世紀初期〜中期
イギリス・フランスの北米大陸進出とオランダのアジア進出

(1)イギリス・フランスの北米大陸進出

(1) スペイン・ポルトガルの進出に対して、イギリス・フランスも、早くよりアメリカ大陸への進出を試みていた。
 イギリスのヘンリー7世は、コロンブスの新大陸に刺激されて、イタリア人ガボット父子に特許状を与え大西洋の北西航路を探検させた。
 これによりイギリスの北米大陸における植民地活動が始まり、17世紀の初頭にはヴァージニア、ニューイングランドを中心に多くの植民地活動が設立された。
 この時イギリス本国内の国教強制化を逃れ信仰の自由を求めていた清教徒や旧教徒が多く北米大陸に移住した。
 彼らの多くはスペイン・ポルトガルと同様に原住民のインディアンを虐待し、その土地を奪い取ながら植民地拡大を推し進め、次第にスペイン・ポルトガルに対抗する大きな勢力となっていった。
(2) これに対してフランスの植民地活動も、17世紀から積極的に始まった。
 イギリスと同様に北米大陸の探検を行い、セント=ローレンス川を逆上ってケベック市を立て、さらにモントリオールから、五大湖、カナダ一帯を支配した。
 また、ミシシッピー川流域一帯も占領し、ルイ14世の名にちなんで「ルイジアナ」と名付けた。
 こうしてフランスの植民地は、カナダ、ルイジアナにいたる広大な地域を占め、18世紀後半には、むしろイギリスより優勢になった。

(2)北米大陸からアジア進出に転換したオランダ

(1) 一方、17世紀の初頭よりアジア方面に精力的に進出したのが、1581年に旧強国(カトリック教国)のスペインから離脱・独立したオランダであった。
 この新教国の独立気運に燃えたオランダは、実利追求の通商国家として、まず北米大陸に進出を試みた。
 しかし、概存勢力であるイギリス・フランスにはねのけられ成功しなかった。
 そこで1595年より、インド航路によるアジア進出を試み、1602年に今までの諸会社を合同してオランダ東インド会社を設立し、これに貿易・軍事・外交・行政の独占権を与えて、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始した。
(2) これによりオランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々と奪い取り、17世紀中期には、現在のインドネシアを中心とした地域に確固した拠点を築いた。
 これ以降約320年間続いたインドネシアにおけるオランダの植民地支配は
  1. 原住民を文盲のままに放置して土候を使って間接統治。
  2. キリスト教に改宗したものは優遇して警察官や軍人として登用。
  3. オランダとインドネシアの混血児層を中間階級として使用し民族の分断を図る。
  4. 社会の流通経済は華僑にやらせ経済搾取によるインドネシア人の憤慨と憎悪を華僑に集中させる。
  5. 一切の集会や団体行動を禁止。
  6. 全国各地域で用いられていた320の種族語をそのままにして1つの標準語まとめる企てを禁止。
 といった統治の方法によってインドネシア人から民族意識を奪っていった。
(3) 1639年、日本では徳川幕府の政策によって鎖国時代に入ったが、この日本との通商を独占したのは、このオランダであった。
 時期的にも、オランダがインドネシアにおいて苛酷(かこく)な支配をかためつつある頃であった。

※<地図2>17世紀初期〜中期イギリス・フランスの北米大陸進出とオランダのアジア進出


次のページへ