18世紀初期〜中期
北米大陸およびインドにおけるイギリスの植民地独占と
それによるイギリス産業革命の勃興

(1)イギリスとフランスとの熾烈な植民地争奪戦

(1) 17世紀中期、全盛期を誇ったオランダに代わって大きな勢力を伸ばしたのはイギリスであった。
 1652年より3回にわたる英蘭戦争に勝利したイギリスは、オランダの海上権を奪い取った。
(2) さらにイギリスは、それまで拮抗(きっこう)関係にあったフランスと、北米大陸、インドをはじめ、西インド諸島、アフリカの各方面の植民地において激しい植民地争奪戦を展開した。
 この争奪戦はヨーロッパ全土における戦争と結び付いて1689〜1815年の約100年続いた。
 その中で両者の命運を分けた最も重要な戦いは、フレンチ=インディアン戦争であった(フレンチ=インディアンとは、イギリス人が付けた名前であるが、フランス人がインディアンの部族と共同戦線を張ったことからこう名付けられた)。
(3) この戦争は、北米大陸のオハイオ川の支配をめぐって英仏の間に勃発したが、最初の4年間はイギリスに不利な状況であった。
 しかしイギリスはヨーロッパ本土の戦争には深入りせず、多数の軍隊を北米大陸に集中させたために、最終的にフランス領カナダの中心地ケベックを占領するに至り、これを機に形勢は一気にイギリス側に有利となった。
 勢いに乗ったイギリス軍は、さらに西インド諸島のスペイン領をも占領した。
(4) 一方、この戦争は、インドにおける英仏間の抗争にも連鎖していった。
 英仏のインド経営は、ムガール帝国の皇帝やその配下にある土候の許可のもとに行われていた。
 帝国の内部抗争に乗じて英仏は、それぞれ土候を買収し、自分達の権利拡張に都合のよい土候を手なずけ、互いに勢力圏を拡張し合っていた。
 この勢力件拡張の衝突が、インドにおける植民地戦争に発展した。
 1757年、イギリスは、プラッシーの戦いでフランスを破り、ベンガル地方を獲得し英領インドの基礎を築いた。

(2)イギリスの優勢とフランスの劣勢を確定したパリ和約

(1) このような植民地戦争は、ヨーロッパ本土を巻き込んだ7年戦争に発展し、それを一層激化させることになった。
 そこで1763年、この全面展開となった植民地戦争に決着をつけるため、ヨーロッパ諸国の間でパリ和約が結ばれた。
 この条約でフランスは、カナダをはじめとするミシシッピー川以東の北米大陸の領土と、西インド諸島のドミニカ、トバゴなどの島々をイギリスに譲り、ミシシッピー川下流流域のニューオーリンズとミシシッピー川以西の地をスペインに譲った。
 このためフランス勢力は、北米大陸、西インド諸島からほとんど完全に締め出される形勢となった。
(2) さらにインドにおいてもフランス東インド会社が、若干の地方を保有することが許されただけで、フランスのインドにおける経営は大きく後退させられた。
 このようにフランスの植民地支配勢力は、徹底的に劣勢におとしめられた。
(3) これに対してイギリスは北米大陸やインドなど多くの植民地を独占することとなり、これまで拮抗関係にあった英仏の関係は、完全にイギリス優勢となった。
(4) またこの和約でスペイン・ポルトガルは、ほぼ完全に中南米大陸を支配することになった。

(3)イギリス産業革命の要因となったイギリスの植民地独占

(1) オランダ、フランスの闘争に勝利したイギリスは、世界の海上権を握り、多くの植民地を独占することによって、ヨーロッパ諸国のどの国よりも多くの物産資源、産業資本を蓄積するに至った。そして、このことは、18世紀中期に起こり始めた「産業革命」の大きな要因となった。
(2) イギリスのそれまでの主な工業は羊毛工業であったが、東インド会社がインド製の綿織物を本国に多量にもたらすようになると、綿織物の需要が増大し始め、国内にも木綿工場が生まれた。
 イギリスの産業革命は、まずこの木綿工場から始まった。
 1733年ジョン=ケイが、それまで2人を要した織機を1人で操作できる飛杼(とびひ)を発明したのを皮切りに、織物、紡績機が次々に改良され、1785年カーライトがワット蒸気機関(1765)を応用して力織機を発明するに至って綿布生産が飛躍的に増大した。
 この技術改良は、他の織物工業にも応用され、同様の生産拡大を生んだ。
(3) このように木綿工業、繊維工業から始まった産業革命は、機械の使用や蒸気機関普及によって機械そのものをつくる重工業の発達を促した。
 特に製鉄法が次々に改良され、製鉄業飛躍的に発展した。
 さらに、この工業生産の発展は、交通手段の革命をも引き起こした。
 1814年スティーブンソンが、ワットの蒸気機関を応用して蒸気機関車を発明し、1825年から実用化。
 30年には木綿工業の中心地マンチェスターと外港のリヴァプールとの間に、鉄道が開通した。
 原料や製品を遠方に輸送する必要上からこのような目覚ましい発明が生まれたのである。
(4) このように産業革命は次々と新しい技術改良と発明を生み出したが、このことは、イギリス人の物産資源を獲得する意欲を一層かき立て、ますます植民地主義を推進していく大きな力となった。
イギリス東インド会社の本社(インド館) 東インド会社軍を閲兵するムガール皇帝

※<地図3>18世紀初期〜中期 


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