18世紀末期〜19世紀中期
イギリスのアジア進出の主力転換と
フランス革命の生起及びスペイン・ポルトガルの没落
(1)植民地争奪戦の産物としてのアメリカ独立戦争
(1) | イギリス本国における産業の発展とは裏腹に、イギリスに決定的な影響を与えたのは、北米大陸における植民地の独立、すなわちアメリカの独立であった。 |
(2) | このアメリカの独立の背景には様々な要因があったが、その大きな要因の1つは、イギリス植民地主義の要をなしていた重商主義政策の矛盾であった。 |
(3) | この重商主義政策は、本国の産業保護を図るために、植民地を原料の供給地とし、かつ製品の販売市場として位置付け、植民地の商工業や貿易に多くの干渉・統制を加えるものであった。例えば、
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(4) | ヨーロッパ全土における7年戦争後、長年にわたるフランスとの植民地争奪戦で財政危機に陥っていたイギリス本土は、右に述べた政策をより厳重に徹底させることによって財源の確保を図ろうとした。 しかし、これが本国人と植民地人との決定的な利害対立を生み、ついにアメリカ独立戦争へと展開したのである。 |
(5) | このような独立戦争の背景をみても、アメリカ独立戦争は、これまでの植民地争奪戦の激化によって植民地主義そのものが採算の合わないほどの矛盾に陥ったところに生じた戦争であったといってよい。 本国人も植民地人も元々は、共にイギリス植民地を推進し、俗に言えば、植民地争奪戦中はイギリス本国人も植民地人も、共に敵であるフランス相手に戦った戦友でもあった。しかし、その終戦と同時に戦争負担の問題を巡って、かつての戦友同士が突然、剣を取り合って戦ったのである。 |
(6) | 独立軍は、最初から苦戦を強いられ、ほとんど敗戦寸前であった。植民地人の中にも独立に賛成したものはわずかに3分の1程度で、独立戦争に参戦した植民地人のほとんどが、独立までは考えていなかった。 それが勝利に導かれたのは、北米大陸におけるイギリスの植民地支配の優勢を喜ばなかったフランス、スペイン、オランダが、苦境にあった独立軍を支援したからである。 |
(7) | このようにみてくると、アメリカ独立戦争は、自由と民主主義という理想主義に充ち満ちた輝かしい戦いであったと言うよりも、むしろ列強各国の植民地争奪戦の産物であったと言っても過言ではなかった。 独立戦争勃発当初より独立軍の敗戦寸前であったこの戦争が、約8年という長期戦にまで伸びた理由も、ここにあったと言えるのである。 |
(2)アメリカの独立によってインド支配に主力転換したイギリス
(1) | 欧米各国の共同戦線によって長期戦となったアメリカ独立戦争に敗北を余儀なくされ、しかも北米大陸の広大な植民地を失ったことは、イギリスにとっては大きな打撃であった。 |
(2) | しかも、アメリカの独立後、イギリス本土では、植民地放棄論が、主として自由貿易論者によって唱えられたことも衝撃的であった。 この植民地放棄論は、19世紀の中期には自由党政治家たちによって植民地改革論として取り上げられ、植民地に自治を与える動き、すなわち自治植民地の創設として現れた。 まず、1855年にニューファンドランドに自治権が与えられたのを皮切りに、20世紀の初期に至るまでに、カナダ連邦、オーストラリア連邦、ニュージーランド、南アフリカが次々に自治植民地として独立し、5大自治植民地を形勢していった(これが後のいわゆる「イギリス連邦」につながった) |
(3) | このようにイギリス本国を取り巻く様相は、アメリカの独立の前後では、大きく変化していった。 広大な植民地の喪失と、自治植民地という穏やかな支配への移行は、すべての植民地を圧倒的優位をもって支配して来たイギリス本国にとっては、明らかに後退であった。 そこで、イギリスは、アメリカの独立を契機に、穏やかな支配へ移行しつつあった既存の植民地を保持させながら、その一方で、完全な優位の支配に立てる植民地の拡大に主力を注いでいった。 その対象となったのが、まさにインドを中心とするアジアであった。 すなわち、本国の産業革命の力を借り、プラッシーの戦いで獲得していたインドのベンガル地方を拠点に、着実にインド支配を押し広げていった。 1804年にはムガール帝国をイギリスの保護下に入れ、1858年にはイギリスの直轄統治が成立し、ムガール帝国が滅亡した。 さらに1877年、イギリスの女王ヴィクトリアが、インド皇帝を兼(か)ね、インド帝国が成立した。 これによりインドは完全にイギリスの支配下に収められ、イギリス本国の経済を根底から支える要(かなめ)となった。 インドにおける苛酷(かこく)な植民地支配は、アメリカ独立を契機としたインド支配の主力転換によってもたらされたものであった。 |
(3)インド・アジア支配によって「世界の工場」となったイギリス
(1) | インド支配の主力転換は、イギリスにとってはアメリカの独立による打撃を乗り越える力となっただけでなく、飛躍的な経済発展をもたらした。 そして、この経済発展と呼応するようにイギリスは、アジア、オセアニアの広大な地域に次々と進出・支配の手を広げて行った。 その間に、アヘン貿易・アヘン戦争やオーストラリアにおける原住民の大量虐殺と、実に悪辣(あくらつ)を極めた行為が展開された。 |
(2) | このようにしてイギリスは、アジア有色民族を犠牲にした植民地の拡大を一層、強力に推し進めていったが、1850〜70年代には「世界の工場」と言われるほどのイギリス経済の黄金時代(ヴィクトリア時代)を迎えた。 1850年のイギリス経済の統計によると、綿花消費量は、ドイツの約1.5倍、アメリカの2倍であり、石炭生産高では、ドイツもしくはアメリカの約8倍、フランスの12倍、銑鉄(せんてつ)生産高では、アメリカの4倍、ドイツの9倍、フランスの5倍以上で、また総輸出額は1850年から20年間に3倍になり、中でも銑鉄の輸出は7倍、機械輸出は10倍に達した。 |
(3) | このようにイギリス経済は、他の欧米諸国と比較にならないほど圧倒的な世界的優位を誇り、まさにイギリスで生産された製品は地球の各地域に及び、その原料は地球の各地域からまかなわれるほどの様相を呈(てい)した。 |
(4) | この絶頂に達したイギリス経済の飛躍的発展は19世紀末には石炭・蒸気に代わる新しい動力源=石油・電気に基づく技術革新すなわち第2次産業革命を生んだ。 |
(4)フランス植民地主義の産物としてのフランス革命
(1) | イギリスはアメリカの独立による打撃を産業革命によって乗り切ることができたが、それと対照的であったのはフランスであった。 |
(2) | フランスもイギリスとの植民地争奪戦の敗北によってイギリス以上に国家財政難に陥(おちい)っていた。 そして、アメリカ独立戦争を支援したものの、その見返りがほとんどなかったためますます国家財政は困窮(こんきゅう)した。 |
(3) | このような状況に対してフランス王ルイ16世は、アメリカ独立戦争以前から、重農学派の学者テュルゴーや、スイスの銀行家ネッケルなどの有能な人物を登用し財政再建を図ろうとした。 しかし、特権身分層や保守勢力の反対のために成功しなかった。財政危機はますます進行し、一般国民の租税負担能力も限界に達していたため、ついに特権身分層に課税しようと、国王は1787年名士会を招集した。 しかし僧侶・貴族の代表で構成されたこの名士会は、課税に反対し、特に高等法院を中心とする法服貴族たちは課税のためには1614年以来開かれていなかった三部会が召集されるべきであると要求し、これを国王に承認させた。 フランス革命は、実にこの「貴族の反抗」が発端となって起こった。 すなわち、革命の発端をつくり煽動した者が、実はそれまでフランス植民地主義を推進し、ベルサイユ宮殿に象徴される空前の絶対王制を形作って来た特権身分層の僧侶・貴族であったのである。 |
(4) | このような過程をみてもフランス革命は、アメリカ独立戦争と同様に、それまで植民地主義を推進して来たさまざまな階層の人々が国家財政の破綻(はたん)という国難に立ち至って急激に利害対立が深刻化し、その仲たがいの中で発生したと言っても過言でなかった。 その意味でフランス革命は、フランス植民地主義の産物であったとも言い得るのである。 |
(5) | なおここで、この植民地主義の本質について付言しておきたい点は、フランスに「革命」が起こり、何故にイギリスに革命が起こらなかったかという点である。 それは、イギリスが植民地争奪戦に勝利し多くの植民地を独占しそこに産業革命という果実を得ることができたからである。 勿論(もちろん)イギリスも植民地争奪戦によって国家財政が窮乏(きゅうぼう)しアメリカの独立という痛手を破ったが、それを乗り越えるだけのものを得たのである。 しかし、フランスは植民地争奪戦の敗北によってほとんどの植民地を失ったが故に、国家財政が破綻(はたん)し革命が起こった。 |
(6) | このような国運のコンストラストを見ても分かるように彼らの運命は実に植民地を前提として成り立っていた。 すなわち彼らの繁栄は有色民族を犠牲にした植民地の獲得によって初めて可能となり、その植民地を失えばたちまちにして破綻してしまうという極めて依存性の強いものであった。 |
(5)中南米諸国の独立によって没落したスペイン・ポルトガル
(1) | 一方、アメリカの独立は、中南米大陸に多大な影響を与えた。 すなわち19世紀初期、アメリカの独立に刺激され中南米に次々と独立国が誕生した。 1804年のハイチとサントドミンゴ(ドミニカ)の独立を皮切りに、次々と独立国が誕生した(地図4参照)。 これによりスペイン、ポルトガルは多くの植民地を失い、このためかつての植民地支配の猛威は見る影もなくなり、衰退の一途を余儀なくされた。 |
(2) | なお、ここで留意しておきたい点は、中南米の独立は、あくまでも原住民族の独立ではなく、その多くは、ヨーロッパから来た植民地開拓者及び、その原住民との混血児の、本国に対する独立であったという点である。 原住民は、スペイン・ポルトガル・イギリス・フランスをはじめとするヨーロッパ系植民地開拓者の苛酷(かこく)な植民地支配の過程で、奴隷・酷使され、虐殺され、また、自らの土地から追放され、被支配民族、少数民族としての社会の底辺に追いやられ、中には絶滅した原住民もあった。 |
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