19世紀後期〜20世紀初期
アフリカを舞台とした植民地争奪戦の激化と
第1次世界大戦の遠因
(第1次世界大戦《1914〜1919》直前の植民地状況)

(1)ヨーロッパ産業革命によって激化した植民地争奪戦

(1) イギリスが「世界の工場」と言われるまでの経済的な黄金時代(ヴィクトリア時代)を迎えようとしたころ、これに刺激されてフランス、アメリカは1930年代から、ドイツは1840年代から、ロシアは1860年代から、それぞれ産業革命が起こり始めた(ヨーロッパ産業革命)。
(2) これにより19世紀末期〜20世紀初期になると、ヨーロッパ各国では、産業に必要な物産資源を獲得するための植民地の獲得が急速に推し進められた。
しかも、各国の間での産業競争が激しくなり、植民地争奪戦もそれまでにない激しさを呈して来た。
(3) 特に、それまで「暗黒の大陸」といわれてきた未開のアフリカは、わずかにエチオピアとリベリアを残して悉(ことごと)くが、各国間での激しい領土争奪戦の末に一気に分割統治され植民地化された。
アフリカ諸国の国境が、今日においても定規で線を引いたような直線的な様相を呈しているのは、この頃に展開された、アフリカ原住民無視の、ヨーロッパ各国本位の分割統治によるものであった。
また、この分割統治は今日のルワンダをはじめとするアフリカにおける地域紛争の遠因にもなったのである。

(2)植民地争奪戦激化の中で打ち出されたイギリスの3C政策の野望

(1) この植民地争奪戦は、かつてイギリスに敗北したフランスの進出が目立つと共に、国内統一が遅れ海外進出が立ち遅れていたドイツ、イタリアの進出も目立ち始めた。
特にドイツは、新しく生まれた電機工業・化学工業の分野(第2次産業革命による新分野)で、世界をリードする勢いを示し、後にも述べるようにイギリスに対抗する形勢となった。
(2) このようなヨーロッパ各国の競争激化による混戦状態の中でイギリスは、かつての「世界の工場」といわれた圧倒的な経済優越性に安住することは、もはや難しい情勢に傾きつつあった。
(3) そのような中でイギリスは、既存の2大拠点であるインドのカルカッタ(Calcutta)と南アフリカのケープタウン(Capetown)に、エジプトのカイロ(Cairo)を加えて、3大拠点を強固にすることによって植民地支配を押し広げていく「3C政策」を打ち出した。
(4) エジプトは、19世紀の後半よりイギリスの介入が進められ、1882年に衰退・末期にあったオスマン・トルコより獲得した地域であった。
これによりイギリスは、本国から地中海を経由し、地中海から直接、紅海、インド洋に出てインドの根拠地ボンベイ、カルカッタに至る新しい流通経路の生命線すなわちスエズ運河を確保することができた。
(5) これに並行してイギリスは、ロシアの南下政策からインドの植民地を防衛するために、1881年にアフガニスタンを保護国としたのをはじめ、イランからは1870年代より多くの利権を獲得し、その他にイエメン、オマーンなど中近東の地域や、チベット、ネパール、ブータンなどの中央アジアの地域にも勢力を拡張していった。
(6) こうしてイギリスは、カイロ―カルカッタの「支配」ラインを強化し、前述の新流通経路を保護・発展しさせて、イギリス植民地支配の要であったインド支配を永久的に保持しようとしたのである。
(7) さらにイギリスは、エジプト支配に引き続き1889年スーダンを支配すると共に、ケープ植民地周辺地域の支配強化に力を注ぎ、アフリカ大陸を、カイロとケープタウンの両端から挟み込むようにして、アフリカ全土を征服していく縦断政策をとった。すなわちカイロ ― ケープタウンの「支配」ラインの強化も推し進めていったのである。

(3)第1次世界大戦の遠因となった植民地争奪戦の激化

(1) このようなイギリスの3C政策に対して新しく台頭してきたドイツは、衰退するオスマン=トルコを援護するといった名目で、1899年トルコよりバクダード鉄道建設の許可を得た。この鉄道は、ドイツ本国のベルリン(Berlin)に発し、ビザンティウム(Byzantium)を経て、バクダード(Baghdad)に至るというものであったが、ドイツも、これによって3拠点を強化する「3B政策」を打ち出した。
 しかし、この政策は、イギリスの3C政策を真っ向から脅かすもので、また、当時、日露戦争に敗れ、アジア進出からバルカン半島への進出に主力転換していたロシアとも真っ向から対立するものであった。
(2) ところでイギリスとロシアは、それまで中近東、中央アジアにおいて、互いに勢力圏を拡張し合って対立していた。
 しかしロシアは日露戦争(1904〜05)の敗北で、その背後で日本を支援していたイギリスに自らの南下政策が阻まれたため、日露戦争以降はイギリスに妥協する姿勢に変わった。1907年、英露の間で中近東及び中央アジアにおける勢力範囲を確認しあった英露協商が締結され、イギリスとロシアの勢力は急速に一本化し、ドイツとの対立が一層、深まる形勢となった。そして、ここに第1次世界大戦勃発の最大の原因が胚胎(はいたい)した。
(3) 第1次世界大戦の勃発の発端は、サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻が、バルカン半島のセルビア人の一青年に暗殺されたことであった。
 しかし、オーストリアの背後にはドイツの存在があり、セルビアの背後にはロシアの存在があった。
 このため、この1事件はイギリス・ロシアとドイツとの戦争状態に発展し、そこにフランスなどの他のヨーロッパ諸国も加わって、ヨーロッパにおける全面戦争に発展した。
 このようにみてくると、イギリスの3C政策とドイツの3B政策を生み出した18世紀末期〜19世紀初期の植民地争奪戦の激化は、第1次世界大戦の遠因であったのである。

※<地図5>


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