19世紀中期〜20世紀初期
アメリカの中南米及び極東への進出・介入

(1)自らの勢力圏確保のための内政不干渉主義

(1) アメリカ合衆国は、建国当時より孤立主義(内政不干渉)を外交の基本原則とし、建国まもなく起こったフランス革命に対しても中立を守った。
この姿勢は1823年のモンロー宣言によって明確化されたが、これによってアメリカはヨーロッパ各国のアメリカ大陸への介入を排除し、かつヨーロッパの本土における紛争や植民地争奪戦にできるだけ巻き込まれない政策をとり続け、ヨーロッパでの紛争とは裏腹にアメリカ独自の勢力圏を確保し、着実に西部開拓を推し進めて自らの領土を拡大していった。

(2)中南米への進出と介入

(1) 西部開拓がほぼ終了するとアメリカは、アメリカの独立に刺激されて独立したばかりの近隣の中南米諸国に度重なる介入を行いはじめた。まず1845年アメリカは、メキシコから独立したテキサスを併合した。
その後、メキシコと戦争を起こし(米墨戦争)、その勝利によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州などの広大な南部・西部地方を併合した。
(2) また1889年アメリカの大陸諸国間の政治的・経済的結合を緊密化するという名目で第1回汎アメリカ会議を開き、中南米への介入強化の足掛かりを築いた。
さらに1898年スペイン領であったキューバに独立戦争が起こったのを機に、独立戦争を支援するという名目でスペインと戦争を行い(米西戦争)、表向きはキューバの独立を認めながら実質的にはキューバを保護領化してしまい、合わせてスペイン領であったプエルト・リコも領有した。これによりアメリカは、中南米諸国に対する軍事的、経済的支配を強化するための前進基地を獲得した。。
(3) その後もキューバには度重なる軍事介入を行うと共に、パナマ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチなどに介入した。
その中でも最も重要なのは、1903年のパナマ保護領化と、パナマ運河の領有である。
これもキューバと同様、表向きは独立を支援するという名目で実質的には保護領化した例である。
すなわち1914年パナマにアメリカはパナマ運河を開通させたが、これは大西洋と太平洋を結び付ける重要な流通航路となり、これによってアメリカは南北米大陸における航海権・通商権を完全に掌握し、中南米諸国に対する支配圧力を一段と高めたのである。

(3)理想主義の中に隠された攻撃的戦略―門戸開放宣言

(1) このような中南米への介入とほぼ同時並行的に、極東への介入と進出を進めた。
すなわち1898年キューバでの米西戦争の延長でフィリピンでも米西戦争を展開し、フィリピンを領有した。
その他に同年、ハワイ、グアム島を領有し、翌年の1899年までにサモア群島を領有、太平洋上に極東進出のための拠点を確保した。
(2) このような同時並行的、集中的拠点確保の布石の過程をみるなら、1899年の国務長官ジョン・ヘイの門戸開放宣言(中国の門戸解放、領土保全、機会均等)は、理想主義の標榜では決してなく、中南米及び太平洋上の拠点を確保した上で、中国大陸に介入するための攻撃的戦略に過ぎなかったのである。
(3) その後、アメリカは満州におけるロシアの侵略に対抗すべく、日露戦争で日本を支援し講和の仲介役を演じた。
このような振る舞いは、一見すると日本を支援する好意的なものに見られたが、その実は、日露戦争の敗北でロシアが満州から撤退するのに乗じて、満州への進出の足掛かりを掴(つか)むものであった。
そして、日露戦争の講和後、アメリカは、南満州鉄道の日本の権益を有名無実化させる様々な工作を展開した。
このようなアメリカの満州に向けた動きをみても、門戸開放宣言が、理想主義を隠れ蓑(みの)とした攻撃的戦略に過ぎなかったことを見て取ることができるのである。
ポーツマス講和会議 日露両全権を互いに紹介するアメリカのルーズベルト大統領(中央)。左がロシアのウイッテ、右が日本の小村寿太郎。

※<地図6>


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