通州事件

保安隊、デマ放送に踊り反乱す

 盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
 世に言う「通州事件」である。
 中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺―――。
 恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留めておこう。
 通州の冀東(きとう)防共自治政府は、昭和10年、親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した政権で、1万余の冀東保安隊を有していた。
 この保安隊は、昭和8(1933)年塘沽(タンクー)停戦協定に基づいて置かれたものであったが、所要以上の人員を有し、また銃と剣だけではなく、機関銃や野砲も持ち、保安隊と称し得る以上の戦闘能力があった。
 さて通州の宝通寺に中国第29軍の1個営が駐屯していたが、7月25、26日廊坊、広安門の両事件が発生するに至って、通州特務機関も、この宝通寺部隊の処理を考える必要に迫られた。
 この部隊は日中関係悪化と共に、去就(きょしゅう)すこぶる曖昧(あいまい)になり、放置しておくのは危険と判断されたのである。
 そこで廊坊事件直後の26日、日本側は宝通寺部隊に対して北平(北京)への撤退を求める最後通告を行った。
 だが中国軍からの回答はなく、遂に27日早朝、我が軍は攻撃を開始、正午までに宝通寺部隊は敗走、潰滅(かいめつ)した。
 ところがこの戦闘で、支援のため飛来した関東軍の爆撃機が、誤って宝通寺兵営と隣接する冀東保安隊幹部訓練所に爆弾を投下し、数名の保安隊員が死亡するという不幸な事態が起きたのである。
 保安隊は我が爆撃機が対地戦闘を開始するや、好奇心から隊員一同が訓練所校庭に飛び出して爆撃を見物していたのだが、飛行機には冀察と冀東の境界線も保安訓練所の位置も分からず、脚下で騒いでいる保安隊を29軍の一味と速断したのも無理のない事であった。
 誤爆の報に接するや、細木特務機関長は直ちに冀東政府の殷汝耕長官を往訪(おうほう)し陳謝するとともに機関長自ら現場を視察、遺族の弔問(ちょうもん)に奔走(ほんそう)した。
 更に翌28日には保安隊教導総隊幹部一同に対して誤爆について釈明し、慰撫(いぶ)に努めたのであった。
 調度、事件の起こった27日頃、デマを流すので有名な南京放送(中国国民政府の御用放送)が「盧溝橋で日本軍は29軍に惨敗し、豊台と廊坊は完全に中国軍が奪還した。中央は陸続、華北の戦野んい兵を進めつつあり、日本軍の潰滅も旬日のうちであろう」と事実と正反対の放送を流した。
 南京政府は最後に「軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍をもって大挙(たいきょ)冀東を攻撃し、偽都・通州を屠(ほふ)り、逆賊殷汝耕を血祭りにすることを決議した」と叫んでいた。
 これは我が北平(北京)特務機関が聴取したのである。
 このデマ放送が北京方面の実情に疎(うと)い通州の中国兵に相当の心理的動揺を与えたことは疑いない。
 通州保安隊は張慶余指揮の第1総隊と張研田指揮の第2総隊であったが、早くから人民戦線運動の影響を受けていた。
 「日本軍敗走」「冀東攻撃」という南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を決定的ならしめ、日本側に付いているよりも29軍側に寝返った方が有利であるとの誤った判断を抱かせたに違いない。
 折もおり、通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、それに憲兵、兵站(へいたん※補給の事)、兵器部その他を合わせて110名程度の微弱な兵力でしかなかった。
 我が部隊の手薄なこの時期を狙(ねら)って、張慶余、張研田の両保安隊は日本軍民への襲撃を開始した。
 夜影に乗じて長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、主力は日本軍守備隊を襲撃した。
 我が方の残留兵力は極めて僅少ではあったが、千数百を算する敵の攻撃に対して死力を尽くして戦った。
 守備隊には軽機関銃、小銃、手榴弾があるのみで重火器は無かった。
 保安隊の装備の方が遥かに優れていた。
 守備隊は敵の集中砲火を浴び、死傷者の続出する中で撃退に努めたが、居留民や特務機関まで守る余裕は無かった。
 鬼畜と化した中国保安隊の日本人居留民に対する暴虐は、この間に進行していた。
 また通州特務機関は、1個中隊ほどの保安隊の襲撃を受け、2名の少年給仕(日本人)を含む機関員が死力を尽くして応戦したが、数十倍の敵には抗し難く、遂に全員が壮絶な最期を遂(と)げ、特務機関は全滅した。

悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺劇

 中国保安隊は我が守備隊や特務機関を攻撃したのみならず、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、無辜(むこ)の居留民(多数の老幼婦女子を含む)に対して略奪、暴行、凌辱(りょうじょく)、殺戮(さつりく)などおよそ残虐の限りを尽くした。
 中国兵特有の猟奇的な殺害、処刑の場面が白昼堂々、各所で展開された。
 その凄惨(せいさん)なること、かつての南京・済南両事件を上回り、我が軍の危惧(きぐ)した通り、尼港事件の再現となったのである。
 東京裁判で弁護側は、同事件に関する外務省の公式声明を証拠として提出したが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。
 所謂(いわゆる)"南京事件"で裁判長が中国側の公式資料を証拠として採用した事を考えると、公平を欠いた裁判指揮であった。
 しかし虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから惨劇の一端を拾い出してみよう。
 当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
 「旭軒(飲食店)では40から17〜8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
 まさになぶり殺しではないか。
 中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
 「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

(注)近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのであった。
 その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ1人これを知るものもなかったが、当日近水楼に泊まり合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、北京にたどり着いた結果、世界はその実相を知ったのであった。
 安藤氏の手記は「続対支回顧録」に、体験談は寺平前掲書に収録されている。
 安藤氏の体験記は「通州の日本人大虐殺」として「文藝春秋」昭和30年8月号に掲載され、その後「文藝春秋にみる昭和史」第1巻(昭和63(1988)年1月)にも転載されたが、それには、いかにも戦後のものらしい解釈がつけ加えられている。

 支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、
 「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
 実に悪鬼も目をそむける酷(むご)たらしい淫虐(いんぎゃく)の情景が次々と証言されて行った。それは正しく悪獣も及ばぬ極悪無道の所業であった。

 (注)お決まりの虐殺方式 上の東京裁判証言に明らかな如(ごと)く、通州事件でも、頭部切り落とし、眼球抉(えぐ)り取り、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺など支那軍特有の猟奇的虐殺が日本人に対して行われている。日清戦争以来、お決まりの惨殺パターンと言ってよい。

事件は保安隊の計画的行動(中国側新資料)

 在留日本人380名中、惨殺された260名。
 冀東防共自治政府2ヵ年足らずの歴史は、ここに通州事件という世紀の惨劇をもって幕を下ろした。
 中国人が日本人を虐殺した数多くの事件の中でも、その凄惨なることで通州事件をしのぐものはない。
 その残忍なること、悪鬼すらかくまではすまじ、と思われる極悪の所業であった。
 通州事件は冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を爆撃され、疑心暗鬼になって起こした反乱であるとの説が我が国では流布している。
 つまり誤爆した日本側に責任がある、とする例の日本悪玉論の亜流である。
 だが、日本軍誤爆説は昔日のものであり、もはや中国でさえ通用しない。
 誤爆があったのは昭和12(1937)年7月27日だが、誤爆を知った細木特務機関長は直ちに冀東政府長官・殷汝耕を往訪陳謝すると共に、自ら現場を視察し、遺族の弔慰に奔走、翌28日保安隊教導総隊幹部一同に対し、誤爆原因について釈明、慰撫に努めている。誤爆原因説では保安隊の反乱やその後の日本人大虐殺は説明し切れず、通州事件の説明はいま一つ釈然とせぬものが残っていたのだ。
 ところが近年になって、通州事件は冀東保安隊第1、第2総隊の計画的行動であることが中国側史料によって明らかとなった。
 例えば、張慶余(当時冀東保安隊第1総隊長)の「冀東保安隊通県決起始末記」(元国民党将領抗日戦争体験記叢書「七七事変」所載)や「戦火蔓延、平津陥落」及び「冀東保安隊の決起について」(武月星他「盧溝橋事変風雲偏」)等である。
 詳細は割愛するが、要はこうである。
 昭和10(1935)年11月に冀東防共自治委員会が成立して河北保安隊が冀東保安隊と改称されるや、第1総隊長・張慶余は河北省主席・商震に指示を仰いだところ、暫(しばら)く表面を糊塗(こと)すべしと言われた。
 12月、冀東政務委員会が発足して宋哲元が委員長に就任すると、張慶余は第2総隊長・張硯田と共に哥老会(かろうかい、明代からの秘密結社)の首領・張樹声を通じて宋哲元と面会した(張慶余・張硯田ともに哥老会会員)。
 宗哲元は両名の抗日決意を「政府を代表して」歓迎すると述べ、軍事訓練を強化して準備工作をしっかりやれと命じ、各々に1万元を贈った。
 2人が「委員長に従って国家に忠誠を尽くす」旨(むね)を述べると、宋哲元は「素晴らしい、素晴らしい」と言った。
 通州での決起はこの会見と関係がある―――こう張慶余は告白しているのだ。
 翌昭和11(1936)年春には、張硯田の第2総隊内にすでに中共支部が結成されていた。
 宋哲元との会見以後、冀東保安隊は29軍(宋哲元軍長)と秘密裡(ひみつり)に連携を保ったが、昭和12(1937)年7月盧溝橋事件が発生すると、張慶余は河北省主席・馮治安(ひょうちあん)に指示を仰いだ(宋哲元は北京に不在)。
 馮は第29軍の開戦に呼応して通州で決起し、同時に一部保安隊で豊台を側面攻撃して狭撃の効果を挙げようと指示すると共に第29軍参謀長・張越亭と連絡せしめ、張越亭は直ちに冀東保安隊第1、第2総隊を戦闘序列に編入した。
 他方、張慶余、張硯田両総隊長は、通州特務機関長細木中佐が、第29軍の通州攻撃を防ぐために開いた軍事会議の席上、密かに示し合わせて細木機関長を欺(あざむ)き、分散していた配下の保安隊を通州に集結させるよう提案した。
 両名を信頼していた細木中佐はこれに賛成、かつ散在していた日本居留民を保護するため通州に集合させたのであった。
 欺して準備が整うや、7月28日夜12時を期して通州城門を閉鎖し、一切の交通、通信を遮断して決起に移ったのである。
 中国側の最新史料によれば通州反乱に至る事情は大要先の通りである「誤爆」などどこにも出てこない。
 通州事件は2年間にわたる秘密裡の計画に基づく日本人襲撃事件だったのであり、日本機に兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって保安隊が起こした事件などでは全然ない。
 事件は先のごとく計画に基づく反日蜂起であったが、保安隊がその計画の実行に踏み切ったについては、誤爆のような突発事件によってではなく、別の、もっと打算的な原理によって動かされたと見るべきであろう。
 既述のごとく、南京政府は「日本軍敗走」というデマを流していた。
 「日本軍を破った」宋哲元の29軍が冀東に攻め込んできたら自分達の運命はどうなるのか。
 この際、冀東政府についているのは甚(はなは)だ危険である。
 機先を制して殷汝耕を生け捕りにし、これを宋哲元と蒋介石に献上するなら、必ず恩賞に与(あずか)ることが出来るに違いない。
 これが南京のデマ放送を信じた反乱者の思惑だったのである。
 そして、昨日まで友軍であった日本守備隊に対し、その兵力の最も手薄な時を見計らって蜂起、襲撃を敢(あえ)てしたのであった。

殺のために殺を好む

 保安隊のこのような動機は、信義を踏みにじっても強者につくという、権謀述数渦巻く戦乱に明け暮れてきた支那民族特有の叛服なき性格に根ざすものであり、信義を重大なものと考える我が国民の到底理解し難いところである。

(注)通州人の特性 通州人は由来、軽佻浮華、計較の術に長じ、打算的で義侠心が無いと言われる。金、元、明、清各朝の興亡史に「通州陥る」「通州降る」などの文字が見えるのもこのためだと言う。通州に昔「渡橋降伏」という言葉があった。敵が八里橋(通州城西門から八華里にある橋で通州八景の1つ)を渡ってしまえば降伏するに如かず、の意味である。このように鼓騒城外に迫れば闘わずして通州人の心胆は氷のごとく冷たくなり、忽(たちま)ちにして腰を抜かしてしまう性向があると論ずる向きもあるが(中野江漢「事変と北支の風物」、「文藝春秋」昭和12(1937)年9月号)、通州事件を考える上で参考になるかも知れない。

 斯(か)かる背信行為そのものが許し得ないことであるが、仮に百歩を譲って、日本守備隊に対する攻撃は、保安隊がすでに共産思想に染まっていたことからして理解出来る面があるにしても、無辜(むこ)の日本人居留民260余名の惨殺は全く殺のために殺を好む鬼畜の所業であり、天人共に許さざる蛮行である。
 罪なく、抵抗力もなき幼児・婦人に対してさえ、一片の憐れみの情を示す事もなく、ただ日本人であるからという理由で白昼平然と犯し、掠(かす)め、凌辱し、惨殺して行った彼等支那保安隊は、人身を装う悪鬼悪獣と言わずして何と呼ぶべきであろうか。

(中村粲著「大東亜戦争への道」展転社刊より、3800円 TEL03-3815-0721)


プラウザのバックボタンでお戻り下さい