西安事件から盧溝橋へ
松井石根大将は、昭和10(1935)年10月、自ら現役を退き、予備役に編入を待ちきれないようにして、孫文の提唱した大アジア主義の思想を実現すべく、国内はもとより、大陸各地を遊説し、蒋介石、何応欽、胡漢民、白崇禧(はくすうき)、張群など、かつては孫文の愛弟子であり、げんに国民政府を形成しているこれら要人らと会談し、日支の平和構築のため専心努力した。
その具体的方として“松井試案”まで蒋介石に提示しているのである。(詳細については第6章の「西南游記」を参照されたい)
その松井大将が、翌年8月、現役に復帰せしめられて、上海派遣軍司令官に任ぜられ、兵を率いて上海に上陸し、これら国民政府の要人らと干戈(かんか)を交えるに至るのである。
まことに運命の皮肉といおうか、人智でははかり知れない多いなる摂理に支配される人間の運命を感ぜずにはいられない。
松井大将が、「満支」や「西南」を遊説したのは昭和10(1935)年から11年にかけてのことであり、必ずしもその効果とはいわないまでも、日支間の外交関係は宥和の方向に向かうかにみえていた。
蒋の剿共(そうきょう)政策は大詰めに来ており、共産軍は延安に追い詰められて、いま一息で壊滅というぎりぎりの土壇場にあった。
が、その年(昭和11年)の12月、晴天の霹靂(へきれき)のような事件が起きた。
蒋介石が中共討伐の督戦のため西安におもむいたところ、逆に部下の張学良に監禁されるという、いわゆる「西安事件」である。
この事件を境に、国共関係も日支関係も180度の急転回を見せるのである。
スターリンの命により、蒋介石は無事に解放されるのであるが、それには周恩来が突き付けた6ヵ条の誓約をのむことが条件であった。
すなわち、第2次国共合作であり、コミンテルンの指令への屈従であった。
周の提示した6ヵ条の誓約とは次の通りである。注(1)
一、内戦を停止し、国共合作すること。
二、今後の日本の侵略に対する武装抵抗政策を規定すること。
三、南京の「親日」官史を罷免し、積極的外交政策を採用して、英・米およびソ連と緊密なる関係=できれば同盟を結ぶこと。
四、東北軍(学良軍)および西北軍(虎城軍)に中央軍と政治的にも軍事的にも同等の待遇を与えること。
五、人民にもっと大きな政治的自由を与えること。
六、南京に一種の民主主義的政治機構を樹立すること。
この6項目を蒋介石がのんだことによって、蒋の対共産政策および対日政策は180度の転換を示すのである。
すなわちスターリンのいう「日本と国民党を戦わしめよ!両者の疲弊困窮(ひへいこんきゅう)の極みにおいて、天下は自(おの)ずから共産党のものとなる」というコミンテルンの戦略は、その図式通り軌道を走り始めるのである。
もともと蒋は米・英依存の事大主義構想の持ち主で、当時米のルーズベルト政府は、スチムソン・ドクトリンにもとづいて徹頭徹尾、満州国不承認政策を堅持するだけではなく、対日融和にむかう全ての政策をチェックし、牽制していた。
西安事件以後はこの米国とソ連が結び、蒋の対日抗争を経済面、軍事面等、あらゆる面で支援し、いや応なく蒋をして対日戦に向かわしめる方策をとったのである。
昭和12(1937)年7月7日、盧溝橋の一発の銃声は、ついに全面的な日支事変へと発展するのであるが、この全面的な日支戦争の導火線に火を点じた者は、中共の抗日学生であり、その指導者が劉少奇であったことは、中共政治部発行の『初級事務戦士政治読本』を読めば一目瞭然である。
かの戦勝国が敗戦国を裁いた一方的な東京裁判においてさえ、挑発者は日本軍にあらずと判定し、共同謀議の項から盧溝橋事件のみは削除している点を見てもこの間の事情が知れよう。
当時の近衛内閣は、盧溝橋事件に対し、ただちに不拡大方針を打ち出し、局地解決を厳命した。
現地軍もまた厳に不拡大方針をとり、現地協定までこぎつけるのであるが、平穏に帰すれば又発砲するといった攪乱工作が執拗に続けられ、かくて、支那軍の協定不履行によって、停戦協定はやぶれる。
さらに続いて廊坊事件(25日)広安門事件(26日)が生起し、日本軍に対する不法攻撃事件が相次いだ。
ことに通州事件においては、日本人居留民に対し、中国保安隊と暴民が襲いかかり、略奪・暴行のあげく、婦女子をふくむ日本人200余人が虐殺されるという大惨事が起きた(29日)。
一方中国側では、蒋介石周辺の群がっている共産党首脳の対日開戦への突き上げが猛烈に行われた。
すなわち盧溝橋事件勃発の翌日の8日、事態が一般にはまだほとんど判然としていなかったとき、早くも支那共産党は、毛沢東・朱徳らの名をもって、「日寇華北進攻に際し蒋委員長に致すの電」および「宋哲元に致すの電」を発している。
そして同時に、全国各新聞社、各団体、各軍隊、国民党、軍事委員会および全国同胞にあてた檄(げき)が発せられた。
その内容な次の通りである。
「・・・われらは南京中央政府が即時適切に29軍を援助し、ならびに全国の愛国運動を解放し、抗戦の世論を昴揚し、全国陸海空軍を動員し、(中略)中国内に潜在する漢奸売国分子および一切の日寇スパイを粛清し、後方を安ぜよ(以下略)注(2)」
11日には、蘆山の国防会議に周恩来が参加して対日開戦を蒋介石に迫り、ついに蒋介石の蘆山声明となるのである。
※注(1) | 邦訳『新版・中国の赤い星』324ページ |
※注(2) | 山岡貞次郎著『支那事変』60ページ |
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