米・英・ソの国際戦略


 この時期、蒋介石自身抗戦意識にとりつかれていた。
 すでに北京の故宮博物館の宝物や歴代の国宝等の重要文化財は、何百という頑丈な箱に詰められて、続々南方へ運ばれた。
 彼は蘆山において官憲の大集会に望み「自分はただいま6個師団を北支に派遣を命じた」「盧溝橋事件が、中日いずれかの側から仕掛けられたものであるか、というような詮議は、全く無用なことである。・・・・・・中国は戦うつもりである」と演説した。
 さらに蒋介石は蘆山会議で、有名な「最後の関頭」演説を行い、宋哲元に徹底抗戦を打電し、6個師の動員とその北上を命じたのである。
 「昭和37(1962)年に出版した蒋介石の自著『蘇俄在中国(スーウォーツアイチェンクオ)』」を読むと、当時の蒋の本心には、「あの孫文に見られたような大アジア主義の理想はなく、もちろん対日和平の構想もなく、ただあるのは、米・英・ソ依存の事大主義思想であった」と角田順氏は述べているが、まさに適評といえよう。
 われわれはこの時期、米・英・ソがいかなる世界戦略をもってこの事大主義思想の蒋介石をあやつっていたかを見る必要がある。
 ソ連は、第一次国共合作で、1919(大正8)年カラハンが、蒙古における特権を放棄すると宣言しながら、わずか2年後の1921年、白系ロシア人の追撃に名をかりて外蒙古に侵入、兵を庫論(リーロン、現在のウランバートル)に進めて、蒙古人民革命政府をつくり、お手盛のソ連式「憲法」を押し付けた。
 これがソ連の世界最初の衛星国である。
 蒋介石の共産党討伐(剿共政策)は有名ではあるが、しかし蒋は、その最中ともいうべき1935(昭和10)年5月、「ソ連と日本との戦争が起こる場合、中国はソ連の武力支援をあてにすることができるか」というステートメントを駐ソ大使顔恵慶(がんけいけい)を通じてソ連政府に申し入れている。
 ソ連政府は待っていましたとばかり、これを歓迎し、機を失せず「中ソ不可侵協定」を締結するのである。
 そして同時に、このステートメントを期して公然と本格的な軍事支援を開始する。
 その翌年の12月に起きたのが西安事件である。
 スターリンは毛沢東ら中共首脳に対して、蒋を殺してはならぬ、生かして日本と戦わしめよと打電したことは前述の通りである。
 かくて、第2次国共合作以後の中国共産党の動きは、スターリンの命のままであったといってよかろう。
 スターリンの次のねらいは、この中日戦争をエサに、米国をいかに取り込み、米国といかに結ぶかであった。
 米・英は最初から日本の台頭を喜ばず、日本の力を押さえるため、1922(大正11)年ワシントン会議における日本主力艦の制限、日英同盟の破棄、1924(大正13)年の排日移民法案の成立、1930(昭和5)年のロンドン会議による補助艦船の制限・・・・・・と、日本を追いつめていった。
 ことに1926年、蒋介石軍は、北伐に際して、外国人居留民に対し凶暴なる暴行虐殺事件を起こした。
 このとき米・英は武力をもって断固鎮圧に当たった。
 しかし日本は無抵抗主義をとったため、海軍は武装解除され、ために在留邦人は暴兵暴民のなすがままの陵辱殺害を受けた。
 「南京事件」「済南事件」「漢口事件」がこれである。
 このときとった日本のいわゆる「幣原軟弱外交」は、かえって日本組しやすしとする侮蔑意識をまねき、それまで中国にみなぎっていた排英・俳米運動は一転し、排日運動へと拍車する結果となった。
 一方英国は、リースロスを派遣して、幣原改革緊急令を交付せしめ、実質的に法幣をポンドにリンクさせ、従来の中国における排英風潮を完全に一帰すると同時に、以後、中国の財政経済の実権を掌握した。
 前述のごとくルーズベルト政府は、スチムソン・ドクトリンにもとづき、満州不承認と他国が対日融和に向かうことを牽制する方策をとる一方、蒋介石政府に対し、軍事顧問団を送り、同時に武器援助を行った。
 いうまでもなく兵器供給は、不戦条約や9ヵ国条約に違反するだけでなく、自国の国内法規にも違反するものであったが、ルーズベルト大統領は公然とこれを決行して、反日親蒋を天下に公表した。 


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