米・ソの対日共同作戦


 ルーズベルトは、自分の卓越した能力と運命に絶大な自信を持っていた。
 彼はそれまでソ連不承認政策をとりつづけてきた3代の大統領の前例をやぶって、あえてソ連承認という挙に出たのである。
 1933(昭和8)年のことである。
 ジョージ・ケナンにいわしめれば、「ルーズベルトにとっての関心は、じつに日本の膨張であって、ソ連赤化の脅威は眼中になかった」のである。
 ソ連は、永年の宿望を達したと大歓迎したことはいうまでもない。
 が、老獪(ろうかい)なスターリンは、党幹部に向かって“静かに”と命じた。
 つまり、あらわに米国のソ連承認に喜びの表情を示すなという意味である。
 かくてスターリンの宿望は1つ1つ達成していったのである。
 われわれは1920年3月1日、レーニンがモスクワの演説において述べた次の言葉を想起する必要がある。

 「日本と米国は戦争前夜にある。そして数百万人が死に、2千万人の不具合を生ずる戦争を防止する可能性はどこにもない」
 「両国間の戦争は準備されつつある」
 「米国はその運命をソ連に結びつけるであろう」

 レーニンの遺鉢(いはつ)を受け継いだスターリンが、少なくとも日本を敵とする対米接近工作を強力に押し進めて来たことは事実であり、いまやその希望の鳥は、手をぬらさずして先方からわがふところに飛び込んで来たのである。
 ルーズベルトのソ連に対するこの甘さが、ヤルタ会談の大失策となり、スターリンにまんまとせしめられて、東欧諸国をソ連圏に追いやったのみか、南樺太、千島の領有を許し、北方四島侵略のいとぐちを作ったことは周知の通りである。
 名著『支那事変=その秘めたる史実』の著者山岡貞次郎氏は、日支事変をめぐる米・ソの野望と謀略を次のように結論する。
 「盧溝橋事件の発火は、米・英・ソに支えられた蒋介石の意図にもとづいて、直接には第29軍麾下(きか)の部隊が起こした。そして事態をこのように展開させた原動力の第一は、ソ連の多年にわたる東亜侵略への野望である。しかしそれは、レーニン、スターリンと引きつづいて日本をアジアにおける当面最大の敵と見なし、このため米国と手をにぎり、正面においては、満ソ国境への圧倒的軍備をもって日本を威圧しておき、裏面においては、支那共産党をあやつって日支を衝突させる、という戦略をとった。(注1)
 いくたびか日支和平交渉が進捗(しんちょく)し、成功しかかると、これを内にあってぶち壊したのは、コミンテルンの指令を受けて日本に派遣された天才的国際スパイ、リヒアルト・ゾルゲである。
 彼は近衛首相のブレーンである尾崎秀美を利用して、日支戦争を継続せしめることに成功すると同時に、日本軍の侵略方向を北から南に向けしめ、日米戦争へと駆り立てた。
 その功績により彼はソ連最高の英雄として手厚く祀(まつ)られている。
 また、エドガー・スノーやアグネス・スメドレーがルーズベルトのスパイとして米ソの橋渡し役と、国共の対日抗戦鼓舞に果たした役割も忘れてはなるまい。

 以上が支那事変をめぐる米・英・ソの世界戦略であり、米・ソの日本打倒の共同謀略である。
 もちろん日本側にも反省すべき点が多々あることは言うまでも無い。
 第一、

 (1)このような米・ソの世界謀略を見抜くだけの識見が日本の指導層の中にいなかった。
 (2)対支21ヵ条の要求は不賢明であった。支那の反日排日の運動は、この時より激化した。
 (3)松井大将がしばしば訓戒しているように、中国人蔑視の思想が日本人の間にびまんしていた。
 (4)満州事変前後から支那事変に到る間の日本の政情は、竹山道雄氏の表現をかりれば、政財界・元老・重臣・軍閥による「機関説天皇制」と、これを打倒し、昭和維新をめざす青年将校を中心とした「統帥権天皇制」との間に流血の惨劇が繰り返されていた。
 3月事件、10月事件、血盟団、5・15事件、神兵隊、2・26事件とその抗争は続いた。
 この期間アメリカはどうであったか。
 史上初の3選を果たしたルーズベルト大統領にしても、対日政策の指導中枢にあったハル国務長官やホーンベックにしても、満州事変から大東亜戦争が終わるまで、終始一貫した政策の上に立って、同じ任務と使命感をもってその任にあたっていた。
 ソ連のスターリンにおいても然りである。
 これに反して日本は、この期間内閣の変わること13回、総理大臣10名が交代している。
 (5)つまり世界戦略がないばかりか、そのたびに対支政策はぐらつき、下克上の風潮は高まり、内政・外政ともにガタガタであったといっても過言ではない。
 この面からしても、日本は到底、米・ソのしたたかさと、その世界戦略に太刀打ちできる状態ではなかったと言えよう。

(注1)山岡貞次郎著『支那事変』141ページ


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