何のための非武装地帯


上海停戦協定境界図
上海停戦協定境界図

 このような米・ソの国際戦略を背景としておこったのが盧溝橋事件であり、北支事変である。
 当然のことながら、その火の手は、またたく間に中支那に拡大された。
 北支で事がおきて1ヶ月目の昭和12(1937)年8月9日、上海陸戦隊の大山勇中尉と斎藤水兵の2人が射殺されるという事件が起きた。
 上海方面の形勢はがぜん険悪となり、抗日・侮日の不法行為は目を追って激化した。
 当時中支那には、日本人居留民は6万人に達していたが、これの生命・財産の救護が急がれた。
 これより先、日本政府は、不拡大方針にもとづき、中国側を刺激しないよう慎重な態度をとっていたが、ついに7月28日、揚子江沿岸の在留邦人3万人の引き揚げを訓令した。
 さらに上海居留民約3万のうち、婦女子等約2万が、8月13日以降逐次帰国し、上海には約1万を残すのみとなった。
 蒋介石は8月15日動員令を発令し、上海周辺に陳誠指揮下の第5集団の第11、第14、第67、第98師が上海を取り囲んだ。
 これより先、中国保安隊はすでに1932年の停戦協定境界線(昭和7年の第1次上海事変のとき列国調印による非武装地帯=図参照)を侵犯して、この非武装地帯に侵出していたのである。
 もともとこの「1932年停戦協定」による非武装地帯なるものは、日本をはじめ各国の居留民を保護するための国際条約である。
 しかるに、昭和10(1935)年頃から中国側の違反行為があからさまになっていたが、蒋をそそのかして日本を戦わしめる腹の米・英・ソはこの条約違反を見てみないふりをしていた。
 これをいいことに中国側はこの地帯に堅固なる陣地を築き、軍隊配備を行い、さらに昭和11(1936)年には幹部参謀の旅行演習などが行われた。
 中華民国国防部史政処編の『抗戦簡史』にはこの間の模様を次のように述べている。

 「民国24(1935)年冬、張治中にひそかに命じて南京・上海方面の抗戦工事を準備させ、戦争が避けることが出来なくなったとき、我が方は優秀な兵力をもって敵の不意に出て、上海の敵全部を殲滅してこれを占領し、じ後、上海周辺の各要点にひそかに堅固なる陣地を築き、わが大軍の集中を援護させ、さらに常熟呉県において洋澄湖、澱山湖を利用し、堅強の主陣地帯(呉福陣地)を、また江陰―無錫間に後方陣地帯(錫澄陣地)を構築した。
 民国25(1936)年、幹部参謀旅行演習を実施するとともに、徐家□(一字不明)、紅橋、真茹、閘北停車場、江湾(きゃんわん)、大場鎮(編者注・いずれも非武装地帯)の各要点に包囲攻撃陣地を構築し、呉福(呉江―福山)陣地の増強、京滬(けいこ、南京―上海)鉄道の改築、後方自動車道路の建設、長江及び交通・通信の改善、民衆の組織・訓練などを実施した」(注1)

 この停戦協定違反について、岡本李正上海総領事は、8月6日、在留居留民に対し租界内に退避するよう命令し、12日に、兪上海市長に対し保安隊の非武装地帯よりの撤退を要求し、同時に締約国である米・英・仏・伊をもって組織する協定共同委員会に呼びかけ、共同抗議および何らかの制裁措置をこうずるよう提案を行った。
 しかし親蒋反日政策で固まっているこれら列国は、全然とりあげようとはしなかった。
 松井大将が、外国記者団と会見を行った際、言っているように、もし列国が日本と強力して、「1932(昭和7)年停戦協定」の維持に努力したならば、上海在留邦人の生命財産は保護され、第2次上海事変は未然に防止し得たはずだと述べているのは、この間の事情を指すものである。
 松井大将の言うように、列国は、停戦協定を支那側に遵守せしむる義務を怠ったのみか、むしろ支那側を教唆煽動して、陰に陽にわが国との戦争を助長せしめ、わが軍の作戦妨害の挙にでたのである。
 米艦パネー号事件、英商船レディバード号事件―――ひいては“南京大虐殺”のでっちあげにいたるこれらの事件の背後に、我々は前項で述べた米・英・ソの世界戦略の一旦を垣間見る思いがする。

(注1)防衛庁防衛研究所戦史宝篇『支那事変陸軍作戦』266ページ


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