203高地に次ぐ悪戦苦闘


 陳誠麾下の第5集団の非武装地帯への侵入という新事態を迎えて、わが陸戦隊の兵力4000(昭和12年8月15日現在)では居留民保護の任務を達成しがたいことは明らかである。
 第一陸戦隊自身が全滅する恐れさえある。
 そこで嶋田軍令部次長は、米内海相に対して、陸軍出兵の要請を行うことを進言し、臨時閣議の開催を申し出た。
 12日夜、4相(首相・海相・陸相・外相)会議が開かれ、2個師団の上海派遣を承認し、13日午前閣議で決定を見た。
 15日、上海派遣軍司令官に松井石根大将が親補された。
 しかしその任務は極めて限定された小範囲のものであった。
 また純粋の作戦車ではなく、一時派遣の意味をもって「戦闘序列」が下令されることなく、軍の「編組(注1)」が示された。
 これを見ても当時の指導者がいかに戦局不拡大方針を堅持しようとしたかがわかる。

 ※(注1)「編組」とは隷属系統を規定する数個の部隊の組み合わせを言い、「戦闘序列」とは戦時に際し天皇の命ずる作戦車の編組を言う。
 その任務は次の通りであった。
 上海派遣軍司令官ハ海軍ト強力シテ上海附近ノ敵ヲ掃滅シ上海並其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スベシ

 松井大将に与えられた「編組」は、第3師団(名古屋)と第11師団=天谷支隊欠(善通寺)の2個師団である。
 大将はこの大命を拝受した時の感想をこう述べている。

 当時ノ所感

 予ハ陸大卒業以来、先輩ノ志ヲ継ギ、在職ノ間、終始日支両国ノ提携ニ因ル亜細亜ノ復興ニ微力ヲ到セリ。支那ノ南北ニ駐在セルコト十有余年、常時支那官民トノ間ニ親睦ヲ図リ、相互民族ノ融和提携ヲ祈念セリ。満州事変起ルヤ、予ハ自ヲ感ズル所アリ、朝野ノ同志ヲ糾合シテ「大亜細亜協会」ヲ組織シ、我同胞ニ対シ反省ヲ促シ、亜細亜ノ大局ニ善処スベキ国民運動ノ勃興ヲ図ルト共ニ、一面支那ノ有識者ニ対シ、孫文ノ所謂「大亜細亜主義」ノ精神ニ覚醒し、真摯ナル日支提携ノ実ヲ挙ゲンコトヲ勧誘セントシ、昭和九、十、十一年ノ間両三度支那南北ヲ歴訪シテ、其朝野ノ知友ニ檄スルナド、一日トシテ未ダ三十年来ノ信念ヲ革(あらた)ムルコトナカリシガ、今ヤ不幸ニシテ両国ノ関係ハ此ノ如キ破滅ノ運命ヲ辿リツツ、而モ予自ラ支那軍膺懲(ようちょう)ノ師ヲ率ヒテ支那ニ向フニ至ルレハ、真ニ皮肉ノ因縁トイフ可シ。顧ミテ今昔ノ感禁ゼザル次第ナルガ、事態ハ如何トモ致シ難ク、須(すべから)ク大命ヲ奉ジテ、聖旨ノ存スル所ヲ体シ、惟レ仁、惟レ威、所謂破邪顕正ノ剣ヲ振ツテ馬稷(ばしょく)ヲ斬ルノ慨深カラシメタリ。

 松井大将は、上海派遣軍司令官に任命されたとき、2個師団足らずの兵力では戦闘困難で、かえって犠牲のみ多く、居留民の保護さえ容易ではない。
 少なくとも5個師団は必要であると主張した。
 中国軍の近代的装備や抗日戦意の実情にうとい中央統帥部は、1万2000の関東軍が20万余の張学良軍を征圧した例をひいて松井の主張をしりぞけ、結局2個師団足らずの派兵となった。
 この時の参謀本部第1部長は石原莞爾少将であり、陸相は杉山元大将である。
 杉山陸相は、天皇の支那事変に対する見透しのご下問に、「3ヶ月程度もあれば片付けることができると存じます」とご奉答している。
 中央の支那軍に対する認識はこんな程度であった。
 加えて石原少将は、支那本土への侵入は絶対反対の立場をとり、局地解決主義であった。
 上海派遣軍は、8月23日、海軍の協力のもとに、上海付近に敵前上陸したが、中国の軍事施設は極めて堅固であり、近代装備の大兵力を集中していた。
 しかも戦意旺盛である。
 派遣軍は最初から非常な苦戦におちいった。
 上海戦は、一兵卒にいたるまで、徹底的に抗日意識に燃えているうえに、米・ソ・独から軍事顧問団が派遣され、武器も輸入され、近代化に励んで来た。
 今や国民政府軍の戦力は、6年前の馬賊の集団のような軍隊の比ではなかった。
 松井大将の言う通り、上海戦は、敵前上陸の時から悪戦苦闘の連続であった。
 加えて、上海付近の地形は、クリークが網の目のように広がっており、野砲以上の火砲は使用出来ないだろうという兵要地誌に対する判断の誤りがあり、日本軍は、戦車や大口径砲の装備が貧弱であった。
 これに対する中国軍は張治中(ちょうじちゅう)の指揮する約10万の兵力と、陳誠(ちんぜい)の指揮する約18万、張発奎(ちょうはっけい)の指揮する約2万、計30万が、馮玉祥(ひょうぎょくしょう)総指揮のもとに水濠の錯綜(さくそう)した地区に、堅固な陣地を構築して、わが方の攻撃に対して、頑強な抵抗を反復した。(注2)
 空軍はもっぱらソ連製の飛行機であり、高射砲はドイツ製、機関銃はチェコ、カービン銃は日本にもない米国製といった調子である。
 戦局の停滞と犠牲の累増を憂えた参謀本部は、西村敏雄部員(少佐)を上海方面に派遣した。
 西村は現地を視察して、「両師団の補充員の輸送、幹部の補充、北支よりの師団の転用、野戦重砲連隊の派兵」を打電した。
 陸軍の中央部においても、上海方面の兵力過少のため、犠牲いたずらに多く、日増しに作戦部を非難する声が強まった。
 しかし石原作戦部長は、増兵しても焼け石に水だといって容易に同意せず、陛下が出せと言われれば別だが、そうでなければ出さぬと頑張っていた。
 しかし、上海方面の悲惨な状況を打開する必要があるので、ついに増兵を同意せざるを得なく無くなった。
 石原作戦部長はついに更迭させられ、石原と争った第3部長の武藤章は上海派遣軍参謀副長に転出させられた。
 最初、重藤支隊の増援、これを貴揚湾(きようわん)に上陸せしめた。
 しかしそんな姑息な措置ではどうにもならなかった。
 ついに中央統帥部は第9師団(金沢)、第13師団(高田)、第101師団(東京)の3個師団の増援を決定した。
 結局、松井大将が最初に主張した5師団投入ということになった訳である。
 作戦上もっとも拙劣といわれる“逐次増兵”が行われたのである。
 それだけに緒戦時に大きな犠牲を強いられる結果となった。
 松井軍司令官は、9月29日、増援部隊を含む作戦計画を立て、目標を大場鎮(だいじょうちん)におき、右から第11、第9、第3、第101師団の各師団を並列し、第13師団を予備として総攻撃を実施した。
 死闘につぐ死闘、悪戦また悪戦、羅門鎮(らもんちん)の攻撃だけでも前後20日以上を要した。
 大場鎮を占領したのは、上陸後約1ヵ月後の10月26日であった。
 6万の戦死傷者を出した日露戦争の203高地の屍山血河に匹敵するほどの大量の戦死傷者を出した記録的な悪戦苦闘の戦史であった。
 上海戦における日本軍の戦死者は9115人、負傷は31257人(嶋田繁太郎日記)を算し、南京占領までをあわせると、戦死者21300人、傷病者50000余に達し、最初から上海戦に投入された部隊は、定員とほぼ同数の損害をうけている。
 例えば第11師団の和知連隊のごときは3500人のうち、戦死1100、戦傷2000余の損害を生じ、この間、11回にわたって2500〜3000を補充するといった状況であった。

 ※(注2)防衛庁防衛研究所戦史宝篇『支那事変陸軍作戦』280ページ


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