南京攻略に至る作戦
我軍の上海附近作戦は派遣軍兵力の増派により頑強なる敵の抵抗を排除しつつ、多大の困難と犠牲を冒して十月二十五日漸く大場鎮附近の敵を駆逐して上海市及其東南地域を占領し、上海在住我居留民及海軍を救ふを得たり。
然れとも上海西南地域には尚相当の敵軍抵抗を持続するのみならす、淅江省方面より新に其兵力を上海方面に派遣増強しつつあり、又蘇州、常熟附近には予て準備せる陣地あり、南京との間に三重の陣地を構築して江南地方の防備を急き、更に其兵力を増強しつつあるの模様なるを以て、我統率部隊は江南地方を確守して同地方の治安を保持するの必要なるを認め、遂に十一月下旬に至り上海方面軍をして南京攻略を決行するに決す。
曩(さき)に浙江東岸(HP作者注・杭州)に上陸なりし第十軍(柳川中将の率ゆる三師団)及元上海派遣軍(朝香宮中将の率ゆる五個師団)を上海方面軍司令官たる予の統率に属し、十一月上旬より江南及東浙地方に現在せる敵軍を駆逐して南京を攻略することとなれり。
於此予は直に部下両軍に命令し、各々当面の敵を駆逐して南京東方紫金山の線に進出するに決して夫々追撃を電署(ママ)せり。
然れとも本作戦は固より我が政府本来の政策を脱逸するのみならす、上海附近作戦の経緯に鑑み今後江南地方に於ける大規模なる作戦の実行力、今後に於ける日支両国の関係に大なる影響を及ほすへきを憂慮し、右追撃命令に対し十分なる考慮を払ひ、特に我軍の軍紀風紀を厳粛ならしめん為め懇切なる訓示を与えたり。
本訓示中特に予自ら加筆せる末文左の如し。
敵軍と雖(いえど)も既に抗戦意思を失ひたるものに対しては最も寛容慈悲の態度を採り、尚一般官民に対しては常に之を宣撫愛撫するに努め、皇軍一過所在官民をして皇軍の威徳を仰き、欣て我に帰服せしむるの概あるを要す。
加之南京攻撃戦は自然同地官民に許多の犠牲を来すへく、尚孫中山陵、明の高陵其他南京城内外の文化的史跡等の損害を招くことあるへきを慮り、各軍に令して先つ南京城内外に於て其隊伍を整へ正々堂々秩序ある入城を行われんと欲し、夫々懇切なる論示を与ふると共に、南京敵軍に対し懇切なる勧降伏文を散布し、努めて平和的手段に依り南京攻略の目的を達せんことを欲したるも敵軍の態度之に適はす、飽迄南京城の防衛を行いたるを以て、遂に南京城内外に於て相当熾烈なる戦斗を惹起し、自然戦禍の及ふ処甚大なるに至りしは遺憾の至りなり。
尚敗走せる支那兵か其武装を棄て、所謂「便衣隊」となり、執拗なる抵抗を試むるもの尠からさりし為め、我軍の之に対する軍民の別を明かにすること難く、自然其一般良民に累を及ほすもの尠からさりしを認む。
※注・原文カタカナ
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