上海派遣軍司令官拝命当時の所感
予は陸軍出身(ママ)以来先輩の志を継き、在職間終始日支両国提携に因る亜細亜の復興に微力せり。
其支那の南北に駐在すること十有余年、常時支那の官民との間に親睦を図り、相互民族の融和提携を祈念せり。
満州事件起るや予は自ら感する所あり、我朝野同志を糾合して「大亜細亜協会」を組織し、我同胞に対し反省を促し亜細亜の大局に善処すへき国民運動の勃興を図ると共に、一面支那有識者に対し孫文の所謂「大亜細亜主義」の精神に覚醒し、真摯なる日支提携の実を挙けんことを勧誘せんとし、昭和九、十年の間両度支那南北を歴訪して其朝野の知友に檄するなと一日未た三十年来の信念を革むることなかりしか、今や不幸にして両国の関係は如此滅の運命を辿りつつ、予自ら支那軍膺懲の師を率ひて支那に向ふに至れるは真に皮肉の因縁と云う可く、顧みて今昔の感に禁せさる次第なるか事態は如何とも致し難く、須く大命を奉し聖旨の存する所を体し、惟れ威、所謂破邪顕正の剣を揮って馬稷を斬るの慨深からしめたり。
<巻末メモ>
十月十日、倫敦タイムス・フレザァ、紐育タイムス・アベンド会見
十月十五日、死傷数。十一月十六日、割腹機會。
十月二十八日、死傷数。十一月四日、中支那方面軍司令官、兼上海派遣軍司令官。十一月二十八日、参本南京攻略決定。
十二月一日、参謀次長、南京攻撃の伝宣命令携来。
十二月二十二日、上海帰還。十二月二十六日、南京強姦を戒む。十二月二十九日、中山参謀。
十二月三十日、李擇一を香港宋子文に遣す。一月十六日、国民政府を相手にせす。一月二十四日、十六師団の掠奪品を検査せしむ。岡田尚返る。二月六日、南京に行く。
二月七日、戒飭。八日上海帰還、遺骨二万と。
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慰霊祭で祭文をささげる松井石根大将 |
※注・原文カタカナ
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