一、検事取調の要旨


松井石根 《昭和21年3月8日 ― 4月26日記》

 3月7日、8日、米国某中佐より2回に亘(HP作者注・わた)り主として上海、南京事件につき取調があり。後19日、更に主として興亜運動に関し、米国2世某軍人より取調を受けたり。
 内南京事件に関しては我軍兵による少数の暴行強姦については之を認めたるも「虐殺」は断じてこれ無しと答へたる外、当時の実情につき委細説明しおけり。
 又紐育(HP作者注・ニューヨーク)タイムズのアベンド氏も若干の誤解ある様なる旨述べたり。
 予及び朝香宮其他多数幹部が、13年2月帰還したるは、軍の編成変更の結果であって、毫も在職中の責任に関係あるものではないこと、又派遣軍将兵の一部に風紀上の欠陥ありたるは之を認めたるも、一般軍紀の弛緩せる事などは絶対になしと述べ置けり。
 又此間、英米等諸国軍官との関係は、大体円満にして、米提督とも2回会見し、大体相互に好感を以て応接せし事を述べたり。
 右の外特記すべき程の事なし。

○3月17日、興亜運動に関する取調は、大体の経過と、主なる関係者の氏名を述べたる位にて、何らの事実的応答なし。

○4月廿5日、廿6日、蘇国検事の取調を受く。
 取調は主として第二部長在職当時対蘇情報及び謀略に関すること、及び昭和4年予の欧州旅行の際に於ける各国大使館武官会合の時のことにて、検事は当時の書類を入手し居り、其真否を確かめたるほか別段の事なし。
 只昭和3年、参謀本部部員神田正種の対蘇謀略及び謀諜に関する意見書を入手し居り、其内容につき予が如何に取扱ひたるやを糺(ただ)したるに付、之は神田一個の意見に過ぎず、其の実行については、専ら関東軍の為すべき事に属するを以て予としては何等特に指示を与へたることなしと答へたり。
 尚亜細亜運動につき予は大亜細亜協会の設立の趣旨、我等の運動の精神につき委細説明を与へ、尚同協会の機関雑誌「大亜細亜主義」を与たへり。
 尚我等の亜細亜運動は、当然、満蒙、西伯利亜(シベリア)等の東北亜細亜諸民族をも含むものにして、蒙古、ツングース、ブリヤード諸民族も亜細亜の同胞として我等と結合せんことを希望するものなる事を述べたり。
 検事は、然らば蘇と戦争すべきやと問へるにより、必ずしも戦争の手段に依らざるも、嘗(かつ)てレーニンが蒋介石に言明せし如く、既往露国帝政時代侵略せる支那の地方を開放し、支那との不平等等諸条約の廃棄を実行せしむれば可ならんと述べ置きぬ。

※HP作者注・「蘇」はソビエトを意味する


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