二、起訴状に対する意見


松井石根 《昭和21年4月30日》     

 1、日本の政策全般に対する誤解

 日本の政界の全般、殊に対支思想の根本を誤解している。
 尚日本の戦争を凡(すべ)て頭下しに侵略戦争と極めているが、先ず其誤れる観念を除く事必要なり。日本は其生存上已(や)むに已(や)まれず国家の存亡を賭して戦ひたること日露戦争以来今回も同じである。
 先に英・米・ソ等が間断なく支那を使嗾(しそう)し、精神的、物質的援助を与ふる事なかりしならば、日支問題は疾く解決し、従って大東亜戦争も起らざりしならん。
 又、日本が漸次国力を発展せしめ、多数人口の捌(さば)きを求め、生活水準を引揚げて欧米並みに比肩せしめんと欲するは当然なり。
 要は現状を維持せんとする欧米と、必然的に国力を進展せしめんとするものとの衝突と見るも可ならん。

 2、南京攻撃に関して

 一、南京攻撃は上海戦の継続にして予告を与ふべき性質のものにあらず。
尚予は、特に南京の平和的占領のため勧降文(注・降伏勧告文)を飛行機にて撒布し余猶を与へし次第にて、十二分の措置を講じたり。

 二、人的物質の損害については、戦争の実際上已むなき事なり。但し予は終始之を最小限に止むることに努力せしことは勿論なり、殊に諸外国の権益や人的物的保護の為めには、自己を犠牲にして之を防止するに努めたり。
 検察側の所謂「虐殺事件」については予は全然知らず。もっともは予は十二月十七日の南京入城式後数日南京にありしのみにて、上海に帰りたるを以て、特に参謀を遣はして調査せしめたるも、予の二月下旬帰還までには斯かる報告は受け居らざるなり。
 予が虐殺事件なるものを始めて耳にしたるは、終戦後米国側の放送なり、予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも、南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たるも、之も責任者の報告にあらざるを以て、其詳細不明にして、而(し)かも予は之を確言する事能はず。
 尚支那兵が軍服を便服に代ふるにより人民との区別不明なりし為め、自然人民の不幸を招きたる事あるべし。

 三、日本兵の強姦、掠奪等については、当時得る限り厳密に調査せしめ、被害者に賠償せしめ、又犯行者は厳罰に処したり。但し掠奪に関しては、遁走の支那兵及び暴民化した支那人の為めによるもの大多数なりしこと疑ひをいれず。

 四、南京入城前城外の孫中山陵を始め、重要なる歴史的建築物や遺跡等の場所を記入せる地図を各部隊に分配して、南京の歴史的文化的建築物の損害なからしむ事に特に注意を払ひたる位にて、不当に不必要に損害を加へたる如き事は絶対になし。

 3、起訴事項について

 各貢に関する予の関係は前記の如し。
 要するに予は、昭和3〜4年(注・1928〜29年)の間参謀本部第二部長の職に在りたるも、此職は情報の収集が専門にして、直接作戦又は政略実行に責任も関係もなき処なり。
 又(注・昭和)4年より約半年間欧米を視察旅行し、帰国と共に四国の師団長に転じたるを以て、満州事変の勃発も其後の進展も全然無関係にて知らず。
 尚(注・昭和)7年12月より軍縮会議の陸軍全権としてジュネーブに約8ヶ月滞在し、帰還後は軍事参議官となるも、その間須臾(すゆ)にして、台湾軍司令官に転じたるを以て、此間中央部の事は何も関係なし。
 昭和9(注・1934)年10月東京に帰任、10年8月予備役となりたるを以て、此間の時機も短く、且つ軍事参議官なるものは、形式的の隠居役なれば、何等責任なき地位なり。
 予備になりたる翌年召集せられ、昭和12(注・1937)年8月上海軍司令官となり、思想、文化を通じて亜細亜諸民族の協和と復興に尽力せるものにして、其目的とする処は、速に戦争を終息し、東亜の平和と繁栄を招来せしめんことを冀(注・ねが)ひたるものなり。


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