三、キーナン主席検事の冒頭陳述に対する意見


松井石根 《昭和21年6月15日記》     

 1、近代における東洋戦争の性質

 過去一世紀に於ける東洋の戦乱は、欧米諸国の東洋侵略の歴史なり。
 東西インドに於ける欧人の侵略は勿論、その後に続く英国の支那に対する阿片(アヘン)戦争、仏国の対支戦争、米国のスペイン戦争とフィリピンに於ける戦乱領有皆然りである。
 帝政ロシアの満州侵略は其最も顕著なるものであった。
 最近に於ける欧米の経済的侵略は、既往の侵略により獲得した植民地によってもたらされた欧米諸国の富有なる資力と工業力をもって、東洋にのぞみ、直接東洋を其市場とし、又はこれを開発して、さらに利益を累増せんとする為めの目的に外ならない。
 かくして欧米は、既得の政治的、経済的に優越して現状を維持せんと欲し、東洋をいつまでも憐れむべき状態におき、これを搾取し収奪する対象と考えてきた。
 然るに日本が欧米と比肩する状態に漸次発展しつつあることに対して、自然に欧米諸国との抗争を惹起するに至ったものである。
 ただ東洋に於ける日本と中国との抗争は、一面には両国民の自然的発展の衝突とも見るべく、また両国民思想の角逐とも考えられる。
 蓋し支那国民の思想は、最近半世紀間著しく欧米の民主思想及びソ連の共産思想の感化を受け、東洋本来の思想(儒教・仏教等)に顕著なる推移を招き、中国国内に於ても既に各思想の混乱粉闘を招致し、惹いては日本民族との紛争の原因をなせり。
 而かも欧米諸国が支那に於ける政治、経済上、更に其思想的地盤を保持して、いわゆる世界現状維持政策を固執せんが為に、直接間接支那国民を支援し、日本との闘争を使嗾(しそう)したるため、日支両国の紛争は年を逐ふて累進拡大せるは遺憾なり。

 2、日本の過去における戦争の目的

 一、明治二十七年、八年の日清戦役は、専ら朝鮮に於ける支那の不当なる政治権力を排除して、朝鮮の独立を確保せしめ、日本の自衛を保持せんとするにあり。

 二、日露戦争は帝政ロシアの満州及朝鮮に於ける侵略を防止して、満州の保全、朝鮮の独立保持を目的とし、延ては日本の独立を完ふせんとするにあり。

 三、満州事変以来数度の支那出兵及び昭和十二年以来の支那事変はいずれも日支間の条約、協定に対する支那側の違反にその原因がある。日本は在支那日本人の生命財産又はその既得権益を守るための自衛がその直接の目的であり、延(ひい)ては欧米諸国の政治的、経済的、思想的な侵略を控制して、東洋平和の確立を保持せんとするにあった。
 かくて日本の対支戦争の目的は、断じて領土的侵略を目的としたものではない
 朝鮮の併合は、欧米諸国及び支那の誘惑と使嗾による朝鮮の紊乱に対応するために、必要已むを得ざる便宜の手段たりしものとして、今次の支那事変の如きも、当初より一貫して日本は支那国民を相手にせず、只管(ひたすら)日本に反抗する蒋介石政権及その軍隊並に一部抗日人民のみ敵としたるものなることは、?時の宣言に明かなるのみならず、我が政府が本事件の始めに於て、努めて事件の拡大を防止し、局地的解決に意を尽くしたることは周知の事実である。

 3、共同謀議について

 由来戦争の目的は、国家自体に在ること自明のことなり
 自然当時の国政を担当せしものこそ、其責任を負うべきものにして、たとえ其国家の各地位に職務を有するものといえども、国策の決定に関する責任なき者に、その責任を拡張するは、全く不道理である
 況(いわん)や日本の政治組織並びにその実権の発動は、米国のそれとは顕著に相違するをもって、米国の習慣や方式をそのまま我が国に適用するは誤りである。
 米国は民主共和国であるが、日本は立憲君主国家である。
 従ってその憲法も、日本と米国は大いに異なる。
 ことに日本軍人は、宣誓により、絶対の服従を要求せられており、現に軍人の憲法と称せられる宣誓文には、

 軍人ハ其事ノ如何を問ハズ必ズ之ニ服従シ、抵抗干犯ノ処分ナキコト

 とあり、たとえ国家の政策又は上官の命令に不同意なる場合であっても、絶対にこれに服従すべき義務がある。
 これに背きたる者は、抗命罪として重き刑罰に服すべき規定なるを以って、直接其決定に責任を有せざる者は、ただ上司上官の命令に従ふ外ない。
 従っていわゆる「共同謀議」なるものは、責任者相互間に於てこそ成立すれども、之が決定に与(あず)からざる者には及ばさると共に、其責任を有するものに、況(いわん)や予の如きは、ある時期中央部の要職にありたりといえど、示されたる訴因の事実に関し、決定の責任ある地位にありたる事なし。
 尚多くの場合は中央部の地位にあらず、他の職務に在りたるを以て、当時何事が政府又は軍部に於て計画せられ、謀議せられありたるやも全く覗(うかが)ひ知らざるなり。
 殊に昭和十年退職予備役に入りし前は師団長、又は台湾軍司令官として外地に在り、其後召集せられて上海総司令官たりし期間、即ち十二年八月十五日より昭和十三年二月廿八日?の間を除くの外全然軍部のことに関し無関係、没外漢なりしなり。

 4、南京事件に就て

 A、上海事件発生の原因

 昭和十二年七月の所謂盧溝橋事件の発生の次第は、予の詳知せざるを以って之を省略す。
 十二年八月初以降の上海事件は、支那軍が1932年の列国間の停戦協定を無視し、上海租界に接近し来り、我海軍将兵に危害を加へ(編者注・大山事件)尚我海軍陸戦隊の微力を以てしては到底居留民の保護に任じ能はざりしのみならず、海軍自身さへも危殆(きたい)に瀕したりしを以て之を援助するため、急遽陸軍部隊を派遣したる次第にて、其開戦機動及び責任共に支那軍に在ること確実なり。

 B、南京占領並に占領後の事件に就て

 南京攻撃は、上海占領後支那軍を追撃したる最後の戦闘なり。
 自然キーナン氏の指摘したる如く、無警告に南京を攻撃せりといふは誤りなり
 予は南京攻撃の際特に慎重に平和裡に南京の占領を欲したるにより、特に飛行機上より南京守備の支那軍に対し降伏勧告文を投じ、平和的手段により南京城を授受すべきことを申出でたり。
 特に二十四時間の時間を猶豫したるも支那軍は之に対し何等の回答を行ふことなく、或は一部を以て我を陽撃し、或は多数の軍隊を船舶を以て移動する等の処置を講じたるを以て、遂に我軍は二十四時間後の昭和十二年十日攻撃実行により之を占領するに至りしなり。
 尚上海占領当時、我軍の将兵中少数のものが支那及び外国官民の家具等を掠奪し、或は支那婦人に対し暴行を行うものありしことは、遺憾の至りなるが、之については十分に償還、慰謝その他善後措置を講じたること別冊の如し。(注・残念ながらこの別冊の行方が分からない)
 更にキーナン氏の謂ふが如き俘虜、一般人、婦女子に対し、組織的且つ残忍なる虐殺・暴行を行へるといふが如きは全くの誣妄(ぶもう)なり
 又軍事上必要を超えたる家屋財産の破壊等行へりといふが如きも全くの虚言にして、日本軍は南京の歴史的文化的都市を損傷せしめざる為め、格別の措置を講じ、孫中山陵その他の重要建造物等に就ては特に保護を加へるよう命令せり、即ち各軍隊に対しあらかじめ市中の重要な建造物の所在を記入せる地図を配布し、その保護を命じた
 事実、砲撃、爆撃により破壊せられたるもの以外日本軍が特にこれ等を損傷したことなし。
 蓋し南京其他、戦闘地区に於て遁亡支那人及び一般人民が争って避難者の家屋に闖入(ちんにゅう)して掠奪、暴行を行うことは、古来支那の内乱以来常習の事実にして、今回の如きも所謂損害の大部分は支那軍民自らに因って為されたるものと判断するは、決して根拠なきことにあらざるなり。
 尚南京のみならず到るところ日本軍の占領したる都市には、其地方の有力なる残存者を召致して「治安維持会」なるものを編成せしめ、日本軍と協力して地方の治安維持、避難民の召致、救済、保護等のでき得る限りの努力を払い、軍自ら物資を供給して之を援助せる等、地方人民の福利民福の為め可能の手段を講じたることは人の知るところなり。
 尚之等の詳細に就ては、別冊の予の回顧録において審かにした通りである。
 又パネー号の爆撃、レディバード号に対する砲撃については、当時外交交渉により解決を逐げたるものにして、いずれも戦闘倥偬(こうそう)の間に於ける已むを得ざる過誤に基因するものなることは敢て説明を要せざるべし。
 又俘虜の虐殺に就ては、予は全然かかることを聞知せしことなし
 勿論上海戦以来各地戦闘にて俘虜を得たるものは、一部は軍自ら各種の労役に之を使用したるほか、上海に特設せる俘虜収容所に収容、保護を与へたり。
 但し各地とも俘虜が収容設備の不完全の為め、遁走を企てたるもの少からず、遂に其一部が銃殺の刑に遭ひたるものあるべけれど、日本軍が自発的に俘虜を虐殺せる事実などは絶対になしと認む。
 況や一般民殊に婦女子等に対しては、特に抗命せざる限り、十分の保護宣撫を旨とせることはいふまでもなき事なり。

 5、南京滞在は僅か数日のみ

 尚予は南京占領後僅かに数日間同地に在りしのみにて、直に上海に帰還し、同地に於ける英・米・仏其他外国軍官との接衝及び一般に江南地方の善後措置に関し、上海支那官民との協議、臨時政府樹立のことに尽力したれば、其後に於ける南京方面軍の詳細に於ては直接関与せず。
 昭和十三年二月、軍の編成改組と共に、二月廿三日上海出発帰朝したれば、其後の事は勿論、細目の事については知る所なし。

 6、予の対支那観及興亜運動に関する信念と其実行

 右は別冊につき承知せられ度く、ただ終りに臨み、予の言はんとする処は左の如し。
 予は支那事変の当初といはず陸軍在職約四十年間一日として支那との親善提携、興亜の協力のことを忘れたることはない。
 予大命を拝し、自ら兵力をもって支那軍を膺懲(ようちょう)しつつありし間と雖も、常に支那官民を愛撫し、之を把握することに全力を注ぎ、南京占領直後、一面上海に臨時政府の設立を企図すると共に、他面人を香港に遣はして、当時香港に在りし宋子文氏その他有力なる支那人と連絡せしめて、蒋介石政権との和平交渉の成立に努力したり、不幸にして事遂に成らず、支那事変は愈々遂に漢口及長沙方面にまで拡大し、遂に大東亜戦争まで惹起するに至れるは、誠に遺憾の極みなり。
 予は今日敗戦後に於ても尚支那及支那人に対する愛着の情は依然として変らず、一日も早く日支両国が我等多年の理想を実現して、真に東洋百年の平和と幸福の為めに相提携するに至らんことを冀(ねが)ひてやまず。
 この興亜の念願成就せんか、予の老?の如きは、一身を犠牲にして何等惜しむところなし
 只管(ひたすら)予の信仰する興亜観世音の神通力により、日支両国衆生を怨親平等に受持し、速に東洋清浄光を発揮して、東亜は勿論全世界の永久平和を具現せんことを祈念す。


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