五、松井石根被告の宣誓口供書


松井石根 《法廷証第三四九八号》     

 1、昭和十二年江南出兵の動機目的

 昭和十二年七月北支に於ける日支確執に因し、上海方面に於ける支那軍民の排日言動日を追ふて強烈に赴き、支那軍は一九三二年協定の停戦協約を無視して頻(しき)りにその軍隊を上海租界地の周辺に集結して、在留日本軍民を脅威し、遂に八月九日大山中尉遭難事件を惹起し、在留軍民の危険日に迫るに至りたるを以て、日本政府は同地方在留民の生命権益を保護する為め、所在海軍を急援する必要を認め、八月十五日、急遽第三、第十一師団(一旅団欠)より成る上海派遣軍を上海に増派するに決し、予は之が司令官を命ぜられ、同月二十日より逐次我軍艦に便乗して上海に至りたり。
 軍の目的任務は、我海軍部隊を応援して、専ら該地附近の居留民の生命財産を保護するにありたり。

 2、予が予備役より特に、上海派遣軍司令官に起用せられたる理由及び当時の心境

 予は明治二十六年(一八九四年)陸軍幼年学校入校以来昭和十年(一九三五年)予備役編入まで余四十年の陸軍在職中、参謀本部々員、同第二部長、第十一師団長、台湾軍司令官等を歴任したり。
 この間支那の南北に在住すること前後十二年にわたり、専ら日支提携の事に尽力せるのみならず、予は青壮年時代より生涯を一貫して日支両国の親善提携、亜細亜の復興在職中の職務の大部分も亦これに応ずるものなりき。

 昭和十二年上海事件勃発し、上海派遣軍の急派となり、予備役在郷中の予がその司令官に適用せられしは、全く予の右経歴に因るものなることは当時の陸相よりも親しく話されたるところなり。
 蓋し当時に於ける我が政府の対支政策は、速かに事件の局地的解決を逐ぐるにあり、彼我の武力的抗争を拡大せざることを主眼となしたればなり。
 抑(そもそ)も日支両国の闘争は、所謂(いわゆる)「亜細亜の一家」内に於ける兄弟喧嘩にして、日本が当時武力によって支那に於ける日本人の救援、危機に陥れる権益を擁護するは真に已むを得ざる防衛的方便たるは論を待たず、恰(あたか)も一家内の兄が忍びに忍び抜いてもなお且つ乱暴を止めざる弟を打擲(ちょうちゃく)するに均しく、その之を悪(にく)むが為めにあらず、可愛さ余っての反省を促す手段たるべきことは、予の年来の信念にして、この度の上海派兵の任に就くに当りては、殊にこの信念に基き、日支紛争の解決に尽さんことを冀(こいねが)ひ、この派兵をして長く日支両国民間に相互怨恨の因たらしめず、却つて爾後の親善提携の基を成さんことを欲し、部下将校に対して特にこの精神を一兵に至るまで徹底せしむることを要請し、出兵に際して次の如く訓示したり。
(一)上海附近の戦闘は専ら我に挑戦する敵軍の戡定(かんてい)を旨とし、支那官民に対しては努めてこれを宣撫愛護すること。
(二)列国居留民及軍隊に累を及ぼさざることに注意し、列国官憲及其の軍隊と密に連絡し、誤解なきを期すること。

 3、上海附近の戦闘状況

 上海派遣軍は八月二十二日より逐次揚子江口馬鞍群島に到着せしが、折りしも上海に於ける我軍民(上海陸戦隊及び上海居留民)の危険日に迫れりとの報により、急遽八月二十四日未明よりその到着せる部隊を逐次に呉淞(ウースン)及びその上流揚子江に上陸せしめ、所在支那軍を駆逐して、我が海軍との連撃(ママ)を得るに努めたりしが、情報によれば当時すでに上海及びその西方揚子江岸に配置せられたる支那軍の兵力は約十万に達しをり、我が上陸部隊を求めて到るところ猛烈なる攻撃を実行し来り、我が軍は多大の犠牲を冒して苦戦十数日にわたり、漸く江岸にその根拠地を占領することを得たりしが、支那軍の反撃は日を逐ふて熾烈を極め、漸次に南京、杭州方面よりその兵力を増援し、その数三、四十個師団の多きに至りたり。
 そこで我軍も漸次之に応じて兵力を増援する事となり、遂に十一月五日、柳川中将の率ゆる第十軍(三個師団余)を浙江省岸に上陸せしめて、上海派遣軍に協力せしめられたり。
 かくて上海派遣軍は悪戦苦闘二ヶ月余にして、十月末より十一月初めに至り、辛ふじて上海附近の支那軍を駆逐して同市附近を占領し、もって居留民の安全を保障することを得たり。

 以上の戦闘において特に吾等の注意を喚起せる事左の如し。

 上海附近の支那軍民の排日敵愾(てきがい)心頗(すこぶ)る旺盛にして、蒋介石親衛軍将兵の如きは最も勇敢に終始攻反撃を行ひたり。
 その他の雑軍も、督戦隊に依りてその敗退を阻止されたる為め頑強に抵抗し、その退却時に於ては極めて混乱の状を呈したり。
 又支那軍は退却に際しては、所謂「清野戦術」を採り、所在の重要交通機関及び建築物の破壊焼却を行はしめたるのみならず、一部の将兵は、所謂「便衣隊」となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏(まと)ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少なからず、附近の人民も亦あるいは電線を切断し、あるいは烽火(ほうか)を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我が軍に幾多の危難を与へたり。
 又同地附近に駐屯せる英・米・沸等諸国の軍民も亦支那軍に同情して幾多の支援を与へ、我が軍の行動に故意に妨害を加へたる事実少からざりしを認めたり。
 なお中支一帯の支那軍民と我が軍将兵との相互の感情が前述の支那側の態度と、久しきにわたる悪戦苦闘とにより、著しく疎隔し、彼我の敵愾心を昴上せしめたることを痛感す。
 その間予は屡々(しばしば)部下将兵に対し、支那良民の保護愛撫と外国権益の尊重を命じたり。
 その結果の一例として、南市附近の戦闘においては、予の命令通り、南市に被害を蒙らしめずして戦闘を終了したり。

 4、中支那軍の編成並に南京攻撃に決したる事情

 昭和十二年十一月五日、第十軍の杭州湾上陸直後、従来の上海派遣軍と第十軍を併せて、中支那方面軍が編成され、予はその軍司令官に任命され、一時上海派遣軍司令官を兼務したり。
 中支那方面軍司令官の任務は、上海派遣軍司令部(注・朝香宮司令官・中将)と第十軍司令部(注・柳川中将・司令官)との上にあって、両軍の指揮統一を計るにありたるが、其の幕僚は僅かに参謀七名に過ぎず。
 従って、其の任務は、単に両軍司令部に対して作戦を指導するに止まり、直接に軍の全般の経理、軍紀、衛生等を区処する職権を有せざりき。
 故に予が上海派遣軍司令官の兼職を解かれたる同年十二月七日以後に於ては、予の現地将兵に対する指揮監督関係は、全然間接となりたるなり。

 中支那方面軍は、上海附近の支那軍を西方に駆逐したる後は、浙江省の嘉興附近より江蘇省の蘇州の常熟に亘る線を占拠し、専ら上海附近の治安の維持に努めたり。
 然るに南京を拠点とする支那軍は、北支那方面に暫時発展せる彼我の大規模なる戦闘に呼応して、江蘇、浙江方面に於ても日本に対する攻撃的作戦を準備し、各地より大兵を終結しつつありて、結局南京附近の根拠地を占拠するにあらざれば、中支那一帯の治安を維持し、我権益を保持すること能はざる情勢に陥りたるを以て、日本軍は、江南方面全般の安寧を恢復(かいふく)する為め遂に南京を攻略することに決し、十二月一日大本営より中支那方面軍に対して「中支那方面軍は海軍と協力して南京を攻略べし」との命令ありたり。
 茲(ここ)に於て、軍は幾多の困難なる事情を冒して、急遽南京城の攻略作戦を進展することとなりたり。

 5、南京占領に対し執りたる処置並に所謂南京掠奪暴行事件

 予は南京攻略に際し、努めて一般の戦闘範囲を局限せんと欲する我が政府の従来の方針に基き、且つ予個人の多年抱懐せる日支提携共栄の信念に依り、出来得る限り本戦闘をして全面的国民闘争に陥らしめざる為め、細心の注意を拂ひたり。
 蓋(けだ)し上海附近戦闘の経験は予をして一層この必要性を痛感せしめたること前述の如し。
 当時予が特に彼我将兵の軍紀風紀粛正その他右目的を達する為め執りたる諸般の処置につきては、曩に証人中山寧人が詳細に証言したるを以て再び茲に贅(ぜい)せず。
 予の南京占領に対する周到なる配慮に係らず占領当時の倥偬(こうそう)たる情勢に於ける興奮せる一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行ひたる者ありたるならむ。
 これ予の甚だ遺憾とするところなり。
 因(ちなみ)に南京陥落当時、予は南京を去る略々(ほぼ)百十哩(マイル)の蘇州に於て病臥中にて、予の命令に拘らず之等非行の行はれたることにつき之を知らず、又何等の報告に接せず、十七日南京入城後初めて憲兵隊長より之を聴き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。
 但し戦時に於ける支那兵及び一部不逞の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行ひしことは周知の事実にして、南京陥落当時に於ける暴行略奪の支那軍民の犯せるものも亦尠(すく)からざりしなり。
 之れを全部日本軍将兵の責任に帰せんとするは事実を誣(し)ゆるものなり。
 予は十二月十七日南京入城式、翌十八日同飛行場にて極めて安静理に慰霊祭を行ひ、さらに十九日将兵十数名を伴ひ南京各地を巡視したるが、火災は既に止み、市内平穏にして避難民も漸次其の家宅に帰来しつつあるを見たり。
 尚当時僅かに約二十名の遺棄せる支那兵の戦死屍体を見たるのみにて、市内の秩序は概ね吠服恢復(かいふく)しつつあるを認めたり。
 但し南京城内の水道、電燈、設備及び重要なる官公建築物が、日本軍入城前支那軍に依り破壊せられ居りたるは事実なるも、火災は割合に少く、焼失せるものは前後数十件に過ぎざるべし。、

 要するに予は、南京陥落後、昭和十三年(一九三八年)二月?上海に在任せるが、其の間昭和十二年十二月下旬、南京に於てただ若干の不法事件ありたりとの噂を聞知したるのみにて、何等斯る事実につき公的報告を受けたる事無く、当法廷に於て検事側の主張するが如き大規模なる虐殺暴行事件に関しては、一九四五年終戦後東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを茲に確言す。
 予は右放送を聞きたる後、我軍の南京占領後の行動に対して調査を試みたけれども、当時の責任者は既に死亡し、又は外国に於て抑留処罰され、諸書類は悉(ことごと)く焼却せられたる為め、十年前の過去に遡(さかのぼ)りて、当時の真相を仔細に吟味証明することを得ざれども、予は南京攻略戦闘に際し、支那軍民が爆撃、銃砲火等により多数死傷したることは有りしならむも、検事側の主張する如き計画的又は集団的に虐殺を行いひたる事実は断じて無しと信ず。
 日本軍幹部が之を命じ、又は之を黙認したりと謂ふ如きは、甚だしく事実を誣(し)ゆるものなり。

 要するに予は、中支那方面軍司令官として、当時の情勢に鑑み、予の職権の能ふ限りに於て、欺(か)かる不祥事の発生を予防する手段を講じ、又違反者の厳罰及び賠償等の善後措置に満腔の努力を尽したること勿論なれども、戦時倥偬の際にして(特に予は南京占領当時蘇州に病臥し居りたること、南京滞在僅かに五日にして、南京を去りたること、及び前述の中支那方面軍司令官として現地将兵に対する直接指揮監督の権限を有せざりしこと等に依り)完全なる掌握を得ること能はざりしは遺憾とするところなり。

 6、南京占領

 予は十二月十七日南京入城後滞在五日にして、十二月二十一日には浙江方面軍作戦指導の必要上、水路上海に向ひ、南京を去り、爾後上海に止まりたるが、該地の支那要人との間に、一般地方の治安維持及び人民救済につき交渉を行ひたる外、同地の英、米海軍提督その他の列国文武官と連絡し、戦闘中発生せる事件に対する措置を講ずる等ひたすら戦後の処理に没頭したり。
 蓋(けだ)し中支那方面軍は南京占領を終り、予が上海に帰還したる後は、中央よりの命令により、南京以東江南全般地区殊に上海附近の確保に専念したればなり。
 因(ちな)みに予は、上海帰還後南京に於ける暴行事件の噂を聞き(注・米大使館の自動車事件=『陣中日誌』十二月二十九日付)、特に昭和十二年十二月下旬、部下参謀を南京に派遣して、重ねて南京滞在将兵に戒告を発し、事件の厳重なる調査と違反者の処罰励行を命じたりしも、予の離任迄格別重要なる報告に接せざりき。
 予は上述の占領地の治安維持の外、蒋介石政府との間に全般的平和運動交渉の必要を認め、上海附近の支那要人の尽力を促すと共に、特に人を福州、広東に派遣して、陳毅及び宋子文氏等と連絡せしめたるが、二月下旬、中支那方面軍の編成改革と共に、軍司令官の職を免ぜられ、帰朝するに至れるを以て、遂に上述の目的を続行する機会を逸したるは今尚遺憾とするところなり。

 7、昭和四年伯林(ベルリン)に於て駐在武官の会同ありたる事実(省略)

 8、軍事参議就職と政府の対外政策との関係(省略)

 9、予の設立せる大亜細亜協会の目的及び其活動の模様、特に北京に於て秦徳純氏等と交渉せる亜細亜運動の真相。

 予は多年欧米人の亜細亜侵略を遺憾とし、亜細亜人による亜細亜の復興を祈願せしものなるが、満州事変以来日支両国民の間に感情的疎隔の顕著なるに鑑み、両国民が亜細亜の全局に想いを致して、些々なる感情誤解に終始することを更めむことを欲し、日支両国有志者の間に「大亜細亜主義」運動の発動を促さむ為め、昭和八年同志と共に大亜細亜協会を設立したり。
 此の団体は政治団体にあらず、一種の社会的文化研究団体にして、其の目的は幾千年に亘る支那及び日本に道統として傅はる王道を拡充し、亜細亜の復興を計り、全亜細亜人の共存共栄を招来し、引いて世界全人類の平和的発展に貢献せしめむとするものなり。(弁護側文書二二三四号)
 同協会の日本人会員の数は二千数余人に達したるも、資力乏しく、格別の活動を為す能はざりしが、其の詳細は証人として同会幹事より陳述せらるべし。(編者注・下中弥三郎、中谷武世両氏証言す)
 予は昭和十年及び十一年に親しく支那の南北に旅行して、支那の旧友の間に謀りて本運動の達成に尽力せり。
 尤(もっと)も支那には既に前年来孫文前大統領によりてあまねく大亜細亜主義の主張せられたる事実あれば、支那は支那人によりて其の大亜細亜主義を鼓吹すべく、吾等の日本に於ける大亜細亜主義運動と連繁して協同の目的達成に到らんことを希望し、昭和十年秋北京、天津の同志と謀り、翌十一年春、北支那有識者間に「中国大亜細亜協会」の設立を見るに至りしものにして、当時予は北京市長たりし秦徳純氏に対して之を勧誘せしは事実なり。
 然れども秦氏が先日当法廷に提出せし口供書の内容は、当日の言説と一致せず。(弁護側文書第二二三四号)
 又吾等の主張は必ずしも欧米人を亜細亜より駆逐せんとするものに非ず。
 亜細亜を友とし、真に亜細亜人の幸福の為吾等と協力せんとする欧米人は、吾等の良友として相提携し、共存共栄を計るべきものなる旨主張したることは、当時発表したる予の言論に徴して明かなる所なり。(弁護側文書第二五〇〇号、第二五〇一号、第二六二八号)

 10、大日本興亜同盟及び大日本興亜会の目的及び活動の状況。

 大日本興亜同盟は近衛第一次内閣当時、国内に林立せる諸興亜同盟運動団体を併合し、恰(あたか)も設立せられたる大日本翼賛会の組織監督下にありて、政府の対外政策に饗応する為め設けられたるものなるが、其の後内外政策の推移に伴う我が内閣頻時の交替の為め、終始その組織及び行動範囲の変更を余儀なくせられ、僅に支那及び満州国の諸文化団体と連絡協力の諸に就きたるほか遂に何ら具体的な活動に入る能はざりき。
 予は本同盟設立当初より副総裁又は顧問の職にありたるは、大亜細亜協会以来の関係に因るものなり。
 大日本興亜会は、前述日本興亜同盟の数次に亘る組織変更の結果、昭和十九年小磯内閣当時、改組織、改名せられたるものにして、其の組織及び活動に関しては、政府の監督指導を受くべきも、団体そのものは純然たる民間有志の文化運動団体の性格を有するものなりしが、太平洋戦争の進展に伴い、交通の不便その他国内外諸事情の緊迫により殆ど具体的の行動を採るに至らず、僅かに機関雑誌発行、在留亜細亜諸国学生、市民の補導員にいくばくかの努力を為したるのみ。
 予は従来の関係上本会の統理に当りたるが、間もなく終戦となり、何等の貢献をも為し得ず、空しく解散の已むなきに至れり。

 11、レディーバード号、パネー号その他渉外事項

 一九三七年十二月十二日頃、第十軍の砲兵が蕪湖付近にて英国砲艦を砲撃したとの報に接し、予は直に参謀長に其の調査を命じたるところ、其の報告によれば、十二月十一日頃、中国軍は大小の艦船に乗じて揚子江を退却中にして、中にはいつわりに外国国旗を掲揚するもの少なからざりしにより、第十軍司令官柳川中将は、退却兵を乗せたる船舶は之を砲撃すべしと命じたるに依り、橋本大佐は十二日朝、濃霧中揚子江を中国兵を載せて航行中の数隻の船舶を認め、之を砲撃したるに偶々(たまたま)その中にレディバード号ありたりとのことなりき。
 依って直ぐに予は、第十軍司令官に英国海軍長官に陳謝することを命じ、予自らも亦(また)南京より上海に帰りて遅滞なく、英国リットル提督を訪ね、遺憾の意を表したるに、同提督は十分予の意を諒し、本国政府に対し予の苦衷を伝達する旨約したり。
 猶ほパネー号爆撃は海軍飛行機が誤り行ひたるところにして、当時予は之れが指揮権を有せず、全然関知せざるところなり。
 然れども日本軍に於て発生せる不祥事なるを以て、予は南京より上海帰還後、遅滞なく米国海軍司令官ヤーネル提督に面会して遺憾の意を表し、其の了承を得たり。
 予が良民を保護し、外国権益を尊重したるは、既述の通りなるが、上海、南京戦が一応終了せる後、英国リットル提督及び米提督ヤーネル少将に面会し、両者の意思の疎通を計り、又作戦間英、米国及びその官民に与へたる不幸なる事実に対し、遺憾の意を表明し、又佛国大使及び佛国海軍長官に面会し、佛国租界及び南京の処理につき意見を交換し諒解するところありたり。
 然して南京の居留民保護に尽力せる牧師ジャキーノ氏の行動に対しては厚く感謝の意を表すると共に、金壱万円を右事業の為に寄附し、以て戦禍の悲惨なる結果の拡大の防止につとめたり。

 12、江南地方出征中の彼我犠牲者と之に対する供養。

 予が上海派遣軍若しくは中支那方面軍の司令官として上海及南京等に転戦中戦病死せる日本軍将兵は二萬一千余名にして、傷病兵を合せて其の犠牲兵の数実に八万余名に上りたり。
 予は支那側証人の主張する如き多数の虐殺事件の存在を否認するものなれど、当時支那軍民の犠牲者数も相当多数に上りたるなるべく、其の中には当時上海及び支那軍隊中に流行せる虎列拉(コレラ)、窒扶斯(チフス)、赤痢等に罹(かか)りたるもの少なからざるべし。
 現に我が軍将兵にして此の種の伝染病に感染せるもの数百名に達し、死亡兵も百名を超えたり。
 想ふに日支両民族は本来同胞として相提携すべきものなるに、徒に兄弟相せめぎて莫大の生命を喪滅したるは、千載の悲惨時にして、痛惜の至りに堪へず。
 予は這般(しゃはん)の事変が両民族親和の契機となり、是等の犠牲者が興亜の礎石とならむことを望むや切なり。
 依りて予は帰朝後、熱海伊豆山の予の寓居の傍に堂宇を建築し、両国犠牲兵の英霊を合祀して其の冥福を祈り、且つ彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採りて、其の境内に「慈眼視衆生」の観音菩薩像を建立し、此の功徳を以て永く平等に回向(えこう)し、諸人と倶(とも)に彼の観音力を念じ、東亜の光明を仰ぎ、やがて世界の平和を招来せんことを朝夕祈願し居りたる次第なり。(了)


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