我等の興亜理念まさにその運動

                                                              松井石根 《昭和二十年十二月記》

編者注

 本文書は、松井が入獄前、自宅療養中に書いたものである。松井は、大亜細亜協会の機関誌、月刊「大亜細亜主義」にしばしば論文を発表し、大アジア主義にたいする基本理念や、行動理論をものしており、また各地で機会あるごとに講演をおこなっている。このような著述や講演内容を集大成すれば、おそらく浩翰な大著となるであろう。
 しかし紙数の関係上、松井石組自身の筆になる大アジア主義理論ないしは興亜理念は、本橋をもって代表したい。
 別項で触れたように、A級戦犯容疑者として松井に、GHQから追捕状が発せられたのは昭和二十年十月十九日のことである。このとき松井は病気療養中のため、翌年三月、病気が快癒するまで入獄が延期された。松井はその間病床にあって筆をとり、『支那事変日誌抜粋』(第三章参照)などとともに本稿を起草し、裁判にそなえたものと思われる。
 松井は本稿をタイプで八部作割したと書いている。(配布先不明)
 松井は囚われの身となっても、自己の信念をまげず、勝者におもねらず、況んや自嘲自虐にもおちいらず、堂々とその所信を被歴している。一読襟を正さしめるものがある。
 連合国によって獄中につながれ、いかなる処刑を課せらるるやも知れない囚人の身にありながら、アジアを奪い、アジア十億の民衆に対して世紀にわたり、収奪と搾取と圧政をかさね、そのため貧困と飢餓と文盲をもたら
したものは、汝ら西欧列強ではないか、われわれはこれら不幸なるアジア諸民族を独立・解放するために戦ったのである。
 戦争に敗れたことは千載の恨事であるが、「然りと雖ども、我等の正義信念は依然として動揺せず、アジア復興に関する我等の理念は燦然として永く青史を照らすであろう」と、堂々胸を張って宣言しているのである。
 さらに松井は「我等八千万国民はいずれの日にかアジア十億の兄弟と共に再起して、正道を貫く時あらん」と、今日いうところの《アジアの時代》《環太平洋時代》を予言しているのである。
 松井の大アジア運動にかけた情熱、執念のすざまじさをこの一文によってもうかがい知ることができよう。
 松井は入獄の日、有末精三(元陸軍中将、終戦時の有末機関長)にこう言ったという。[興亜運動のかどで処刑するというなら、甘んじてこれをうけるが、ありもしない%京事件″をいいたてて、処刑されるんでは、死んでも死にきれない」と、大アジア主義者松井の面目躍如たるものがある。


[松井石根大将のページへ][次ページへ]