遺書と辞世


 処刑された7士の最後を見送った巣鴨プリズンの教誨師(きょうかいし)の花山信勝師は、松井石根大将についてこう述べている。

 「松井さんは『仏間』に入るときは必ずガウン(注・米国製囚人服)を脱いで話され、終わった時はガウンを着て帰られるのが習慣だった。洒脱だが、謹直な『観音信者』だった。『観音の慈悲』をひとしくアジアの民衆に及ぼすことを信念とされていた」(花山信勝著『永遠への道』278ページ)

 松井は処刑直前の21日、次のごとく遺書をしたためている。

 昨二十一日夜「マッカーサー」元帥命令ニヨリ明二十三日午前零時当監獄内ニ於テ絞首刑執行ノ旨宣告セラル。
 兼テ期セシ処ナレバ何ヲ驚ク事ナク謹聴セリ。
 余ハ武家ニ生レ家職ヲ継イデ陸軍武官トナリ、累進、大将ニ進ミ、正三位ニ叙セラル。
 更ニ勲一等功一級ノ栄勲ヲ辱(かたじけの)フシ、一身ノ光栄ニシテ切ニ皇恩ノ無窮ニ感激シアリ。
 今南京虐殺事件ノ犠牲トナリ、此責任ヲ負ッテ連合国ノ処刑ニ付セラル。
 況(いわん)ヤ予ハ先ニ上海、南京ノ戦ニ多数ノ日華両国軍民ヲ喪ヒシモノナラバ祖ノ責任上許多(アマタ)ノ英霊ノ跡ヲ追テ殉ズル事ハ当然ナリ。
 大東亜戦争ハ直接予ノ責任ノ外ニ在レドモ、是亦日支事変ノ延長ト見ルベク、予ノ地位、経歴上責任ヲ免ガルベキニ非ズ。
 今ヤ敗戦日本ノ醜態ヲ暴露セル事ニ関シ、責任ヲ自覚シ、一死謝スル事ハ亦自然ナリト言フベシ。
 顧テ想ヘバ予ハ此度ノ死ニ関シ毫(スコシ)モ未練アル事ナク、之ヲ天地神仏ニ対シテモ罪ヲ恥ズル事ナシ。
 只多年心ト身ヲ賭シテ志タル日支ノ提携ト亜細亜ノ復興トヲ遂ゲ得ズ却テ我ガ国家百年ノ基(もとい)ヲ動揺セシメタルハ遺憾ノ極ミニシテ、余ノ心霊ハ永ク伊豆山ノ「興亜観音山」ニ止マリ一心「観音経」ニ精進シ、興亜ノ大業ヲ看守スベシ。
 文子、久江始メ予ト志ヲ同クスル者ハ克(よ)ク此意味ヲ体シ、相共ニ平等無畏ノ真理ヲ信ジ、安心立命、徐(おもむろ)ニ後途ヲ図ラム事ヲ庶希(こいねが)フ。
 予ノ一家ハ現在文子、久江ノ後断絶セシムベシ。
 仍(よっ)テ予及予ノ家ノ後事ニ就テハ兼テ申シ聞カセアル通リ今ニ於テ何等言フベキモノナシ。
 予ノ葬祭、遺品ノ処分凡(すべ)テ文子ノ裁量ニ委(ゆだ)ヌ。
 松井家ノ祖廟ニ関シテモ既ニ申述ベタルガ如ク処置スベシ。
 名古屋ノ墓所ハ永代供養ノ方法ヲ講ズル事ヲ望ム。
 伊豆山ノ「興亜観音堂」ハ現在ノ奉賛会ノ外ニ、内外有志ニ諮(はか)リテ一講社ヲ設立シテ永久ニ供養ニ辧ゼシム事ヲ希望ス。
 成シ得レバ一切ヲ熱海市ニ寄附シ、将来ノ保持ヲ安全ナラシムル事ヲ望ム。
 但シ其名称ハ飽(あく)マデモ「興亜観音」ト呼称スベシ。
 右観音堂将来ノ方途ニ付テハ高木陸郎、岡田尚及椎尾、花山両師ト諮(はか)リ何分ノ善処方ヲ祈念ス。

 そして次の三首と一詩を辞世とした。

 天地も人もうらみずひとすじに無畏(むい)を念じて安らけく逝く

 いきにえに尽くる命は惜かれど国に捧げて残りし身なれば

 世の人にのこさばやと思ふ言の葉は自他平等誠(まこと)の心

 衆 生 皆 姑 息     衆生は皆姑息
 正 気 払 神 州    正気、神州を払う。
 無 畏 観 音 力    無畏観音力は、
 普 明 照 亜 洲     普(あまね)く明かに亜洲を照らす。

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