田中義一・蒋介石密約
松井石根は悲運の将軍と言われている。
前述のように松井の陸士同期(第9期)から陸軍大将を5人も輩出している。
そのうち阿部信行は内閣総理大臣を拝命し、荒木貞夫は陸軍大臣に就任した。
教育総監の真崎甚三郎は周知の通り、2・26事件を起こした青年将校を含む、いわゆる皇道派から首相に擬せられた皇道派の首領である。
本庄繁は関東軍司令官となり、のちに宮中に入り侍従武官長として天皇の側近にあった。
ひとり松井のみは、大臣にもならず、顕職(けんしょく)にもつかず、同僚の4人の大将よりも一足早く現役を退くのである。
陸士は次席、陸大は首席で、共に恩賜(おんし)の時計と軍刀をいただいた陸軍きっての秀才が・・・である。
しかしその果てが“南京虐殺”という政治的、謀略的な無罪の罪を負わされて、投獄され、戦犯として処刑されるのである。
その汚名ははれることなく、今日もなお国際的な指弾を受けている。
まことに悲運の将軍と言わざるを得ない。
それには次のような経緯があったことを知る必要がある。
昭和3(1928)年6月4日、特別列車で奉天に向かった張作霖が、奉天のすぐ近くの京奉線が満鉄とクロスする付近で爆破され、死去するという事件が起きた。
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森格(もりいたる) |
いわゆる「満州某重大事件(張作霖爆死事件)」がこれである。
当時松井は参謀本部第二部長であった。
時の内閣総理大臣は田中義一大将である。
田中(義一)は外相をも兼務した。
田中(義一)は組閣当初から満州問題の重大性を認識し、これが解決に苦慮して、内閣の対支方針を決定するため、昭和2(1927)年6月「東方会議」というのを開く。
この東方会議は外務政務次官の森格(もりいたる)は主催した大会議で、田中首相兼外相が議長となり森がこれを補佐した。
この会議は、外務、陸・海の首脳を集めて、6月29日から7月4日まで1週間ぶっ続けで行われた。
当時、軍の上層や田中内閣の中に、満蒙に対する考え方が2種類あった。
1つは馬賊出身の張作霖をわが方の傀儡(かいらい)としてその勢力を温存しつつ、これを防壁として、支那全土の国民党勢力の北進を阻止し、もってわが方の権益を守ろうとする考え方である。
他の1つは、日本民族が日清、日露戦争後、血をもってあがなった満蒙の権益を、いつまでも馬賊出身である張作霖一家に壟断(ろうだん)させ、これに依存して我が権益を保持しようというような姑息な政策を排し、満蒙を支那の中央政権から引き離して、ここに別個の独立政権を樹立して、これを通じてわが権益の保持とソ連に対する防衛の第一線を守らなければならないとする考え方であり、これは後の満州事変の勃発にもつながる構想である。(『中谷武世回想録』〈24〉「民族と政治」11月号55ページ)
結論は、7月7日の最終日に田中首相兼外相が訓示した対華綱領に示されたが、その要点は8項目からなっている。
前半は中国の自主性の尊重と列国との強調をうたっており、穏健な表現になっているが、重点は後半の7〜8項目にあると言われる。
(7)満蒙は帝国の国防上並びに生存上重大なる利害関係にある地域であるから、特に政治の安定に努める。
(8)動乱が満蒙に波及し、日本の権益が侵される恐れが生じた時には、帝国はいずれかの方面より来るのを問わずこれを防衛し、且つ内外人発展の地として保持せらるるよう、機を逸せずして適当の処置に出づる事の覚悟を要する。
満蒙特殊地域擁護のためには機宜(きぎ)の処置をとる、つまり武力行使も辞さないということであって、この東方会議の考え方が、張作霖爆殺事件、ひいては3年後の満州事変勃発につながるのである。
ところが、この2つの構想の他に、もう1つの構想が立てられていた。
じつは田中義一首相もこの第3の構想ともいうべき考え方に大乗気であった。
首相兼外相の立場で自ら主催し、議長役であった田中は、この7日間の「東方会議」にわずか2回だけ出席したのみで、あとは森格(もりいたる)に任せきりであった。
田中内閣の産婆役を演じた久原房之助にしても森格にしても、最初から軍部とナアナアである、「東方会議」も結局軍の意を汲んでこの2人のお膳立てによるものであった。
もう1つの構想というのは、松井石根の構想である。
松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。
日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしめるよう助力する。
そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蒋の国民政府による中国統一が成就したあかつきには、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認せしめることを条件とする、という案である。
松井は、日露戦争当時陸軍随一の中国通として令名高い北京駐在武官長青木宣純少将(当時)の同門である佐藤安之助とはかり、彼を政友会から立候補せしめ、田中内閣成立と同時に、田中の対支政策のブレーンとしてこの構想を田中に吹き込んだ。
田中はこの構想に強い関心を示した。
いつでも蒋介石と会おうというところまでこぎつけた。
一方松井は、旧知の総参謀長張群を通じて蒋介石の来日を促(うなが)していた。
同時に佐々木到一中佐に将来は蒋介石の国民党時代がくる。
貴公は蒋介石の顧問として赴任し、蒋の対外政策を誤まらしめんよう、よろしく梶(かじ)を取れと命じ、佐々木を蒋の顧問にあっせんした。
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漢口で“倒蒋演説”を行うボロディン |
当時中国は、武漢政府と南京政府が対立していた。
汪兆銘と共産党の連立政府のである武漢政府は、蒋介石の南京政府打倒を呼号していた。
汪兆銘と共産党の連立政府である武漢政府はこの時とばかり、蒋介石の南京政府打倒を呼号していた。
南京軍が徐州に大敗するや、武漢政府はこの時とばかり、蒋介石討伐の軍事行動を起こすことに決した。
蒋は北軍との妥協を策したが成功せず、他方武漢派の軍の南下に遭い、自らの軍隊は士気阻喪という最悪の事態に直面した。
そしてついに昭和2(1927)年8月24日下野を声明した。
ボロージンを手先に使ってのスターリンの国民党攪乱政策に、汪一派があやつられた結果、このような蒋・汪両政権の抗争となったのである。
この機をとらえて、松井は張群総参謀長に働きかけて、蒋の来日を促した。
田中首相もまた芳沢謙吉公使を通じて、失意の蒋を激励した。
蒋介石がこっそりと日本を訪れたのは、(昭和2年)9月28日のことである。
随行は張群と秘書の棟方之らわずか5名であった。
松井はひそかに張群とも蒋介石とも会い、佐藤安之助も交えて「田中・蒋会談」の根回しにつとめた。
10月15日、青山の田中私邸で両者の会談が行われた。
この会談に参加したのは、日本側では森格と佐藤安之助、蒋側は張群が陪席した。(田崎末松著『評伝田中義一』568ページ)
この会談の模様は『外務省外交年表並に主要文書』に詳しいが、省略して、その結論だけを述べると、田中の主張は、蒋のこのたびの下野の態度をたたえ、その将来性を高く評価して、
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昭和2(1927)年11月3日、東京目白・梅屋庄吉宅の庭で |
(1)この際、揚子江以南を掌握することに全力をそそぎ、北伐はあせるな。
(2)共産主義の蔓延を警戒し、防止せよ。
(3)この(1)(2)に対して日本は支援を惜しまない。
この3点であった。
蒋介石はもっぱら聞き役であったが、最終的に2人の間に合意したのは、国民改革が成功し、中国統一が成功したあかつきには、日本はこれを承認すること、これに対し国民政府は、満州に対する日本の地位と特殊権益を認めるということであった。(「知性」別冊第5号〔1956年〕鈴木貞一述『北伐と蒋・田中密約』)
蒋は汪兆銘の招電で帰国するが、帰国した際は、上海に上陸した際、記者団との会見において次のように語っている。
「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と。(前掲「知性」山浦貫一述『森格』)
歴史にif(もし)という仮定は許されないと言われるが、ここまで組み立てられた松井構想が、このまま順調に生かされたならば、日中の歴史は全く変わったものになっていたに違いない。
ところがその翌年の6月4日、前述のような張作霖爆死事件が起き、3年後には満州事変が勃発し、松井構想は音を立てて崩れ去ってしまうのである。
昭和11(1936)年3月、松井は西南旅行の途次、南京において張群、蒋介石と会談している。
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