「興亜観音」って何?
“興亜観音”とは、日中戦争(支那事変)での日中両軍の戦没者を、等しく供養するために建てられた観音像の事です。
この観音像は、昭和15(1940)年2月、陸軍大将松井石根(まついいわね)の発願によって、日中戦争(支那事変)での日中両軍の戦没者を“怨親平等”に、ひとしく弔慰、供養するために健立されたものです。
松井将軍は、若いころから日中友好論者であり、蒋介石とも旧知の仲で、蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した際には、下宿の世話まで行い、蒋介石にとっては日本における父と呼んでいた人なのです。
ところが昭和12(1937)年8月、日中間で戦争状態となり、第二次上海事変の際に、松井大将は陸軍きっての中国通として上海派遣軍司令官として任命され出征を行ったのです。
激戦の末、当時の中国の首都であった南京攻略戦を果たし、翌年凱旋帰国、熱海伊豆山に居を構えました。
松井大将は戦いを通じて日中両軍に多くの戦死者が出たのをいたみ、彼我平等にその霊を弔うために観音像の建立を思い立ち、建てられたのです。
しかし、松井石根大将は戦後の東京裁判において、A級戦犯として、いわれ無き冤罪“南京事件”の責任を負わされ、昭和23(1948)年12月23日、殉国刑死されました。
境内には現在、昭和35(1960)年に吉田茂・元総理の筆による「七士之碑」が建てられ、東京裁判でA級戦犯として殉国刑死された七名の遺骨も葬られています。
さらにB・C級戦犯の殉国刑死者を含め、千六十八柱の供養碑も建立されています。