興亜観音に詣でて

犬飼總一郎(陸士第48期)


 なんと迂闊(うかつ)なことに、興亜観音に初めて詣でたのは、やっと平成5年春のお祭りになってであった。それまで知らずに過ごしてしまい慙愧(ざんき)に堪えない。
 じつは同年2月、偕行社版『南京戦史資料集U』に、松井石根大将の『出征日誌』全文を収録することとなり、その記事の一部をめぐって編集会議で論議されたとき、自身も編集委員のひとりとして、その論議に疑問をいだいた。
 これは松井将軍について改めて調査する必要があると思い、それ以前に読んでいた田中正明氏編『松井石根大将の陣中日誌』を調べ直し、さらに田中氏宅に参上して教えを乞うたところ、松井将軍著『西南遊記』が重要であるとのご指摘を賜(たまわ)り、その原史料が板妻の陸上自衛隊普通科連隊の資料館に保存されているから、改めて調べ直すようにとのご要望を拝承(はいしょう)した。
 というのは、『西南遊記』はすでに『陣中日誌』に収録されているが、原資料に判読不能の部分が残されていたからである。
 そこで喜び勇んで板妻に赴(おもむ)き資料館を訪れたところ、将軍の『出征日誌』も『西南遊記』も見当たらない。
 館員に尋ねると、誰が持ち出したかわからぬと言う。
 『出征日誌』の方は恐らく偕行社が借り出したに違いないが、『西南遊記』は偕行社にもないことが後日わかった。
 誰かが猫糞(ねこばば)をきめこんだかも知れないが、そのため調査は行きづまった。
 ところが同館長が来てくれて、近く5月には熱海伊豆山で興亜観音のお祭りがあると教えてくれた。これで初めてお祭りが毎春行われていることを知り、遅蒔(おそま)きながら参詣(さんもう)した。
 そしてお祭りの後の会合で、興亜観音の維持管理が窮状(きゅうじょう)にある実情を知らされた。
 松井将軍は、わが京都第十六師団が支那事変の初期、華北から江南へ転進した昭和12年11月中旬から翌年1月下旬まで、その隷下に属していた。
 しかも、旧尾張藩出身の陸海軍将校は、生徒時代より河田町の徳川男爵邸内に設けられていた「助愛社」でお世話になり、毎春の園遊会では松井将軍の拝眉(はいび)を得ていた。
 そのように、松井将軍とは公私にわたり浅からぬご縁があったのである。
 ところで、昨年5月のお祭りでは、興亜観音の窮状(きゅうじょう)に対処し、観音をお守りする会の結成が議せられ、お守りするため微力を捧げる決意をしたしだいであるが、この日、奇しくも東條英機将軍のお孫さんに当たる岩浪由布子様の拝眉を得たのみならず、その帰途には岩浪様が運転なされるお車で、伊豆山麓から熱海駅まで送っていただく公栄に浴(よく)した。これまた、ご縁があってのことと感じ入った。
 興亜観音は困難な諸条件が重なり合っているのでここでお守りするには、多くの有志によるご支援が緊急事となっている。
 よって、是非ともご芳志をお寄せいただくよう祈念するしだいである。


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