若い世代の吸収を
興亜観音を守る会副会長 中村粲(あきら) 独協大学教授

 初めて興亜観音の参詣したのは昭和50(1975)年早春、伊豆のゼミ合宿の帰り途であった。故伊丹妙真尼とお会ひしたのもその時が最初である。以来、毎年春二、三月の頃、伊豆でゼミ合宿を行った帰途には、必ず学生達を連れてお参りするのを慣はしとしてきた。それが二十年続いてゐる。
 ゼミのテーマが大東亜戦争や東京裁判なので、興亜観音に参詣するのは大層有意義でもあるし、また勉強にもなる。それにまた、妙真尼の慈愛にみちたお人柄も、私の足を伊豆山に向かわせた一つの理由であった。
 水の春――といふ言葉があるが、春の光を眩しいほどに照り返して輝く相模湾や遥か十国峠や天城の山波を時々振り返りながら、春浅い伊豆山の山道を興亜観音へと辿(たど)るのは、私にとつては欠かせない年中行事の1つともなってゐる。それが終わつてはじめて春が来るのである。
 伊丹家は、松井石根大将が東京裁判の結果刑死されてから、この観音堂の守りを続けてこられたのであるが、その仕事と生活の容易でないことは、ここを訪れる何人(なんぴと)にも一目瞭然であっただらう。それは杞憂ではなかつた。興亜観音は今や存亡の岐路に立つこととなり、これを救い、守り続けて行かうとの声が心ある人達の間から油然と湧き起こり、「守る会」の発足を見ることとなつた。時節柄、マスコミの脚光を浴びる事もなく、細々と、しかしながら誠一筋に堂守りを務めてこられた伊丹家の方々はまことに尊く有り難い方々であった。いま、十分ではないにしても、この方々の仕事を助け、興亜観音を守り抜くための第一歩が踏み出された。
 「守る会」が、より若い世代の人々を吸収し、長い将来に亙(わた)つて興亜観音を支へる大きな力に成長してゆくことを願ふものである。(平七・二・一一)


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