哀愁と慈愛と 初めての感動

作家 早瀬利之


 「興亜観音」に初めて出会ったのは、取材で川奈へ行く途中熱海で下りた、1995年2月9日の朝である。
 川奈へは午前中訪問する約束の人がいた。ところが電車が湯河原を出た頃から、急に窓外が明るくなり、朝陽がさしてきた。その時、大きく心変わりした。
 熱海からタクシーで観音前で下り、そこから急な坂道を上った。暫(しばら)く竹薮(たけやぶ)の中を歩いてのぼり切った。息を整えていたら正面に観音像が立っていた。
 私は咄嗟(とっさ)に、「あっ、何と美しい観音像か!」と立ち止まってしまった。
 それまで色々な観音を見てきたが、いずれも大人の、ふっくらした顔の観音さまだが、興亜観音はまだ若く慈悲にあふれたやさしい表情をしている。
 心なしか、合掌した手が中心線より左側に寄っているようにも見えた。
 顎(あご)の真下ではなく、ほおの左寄りに、合掌した手の位置がある。カメラに納めた観音像を見る。やはり心もち左サイドに両手の位置があるのを発見した。
 もうひとつの驚きは、昭和46(1971)年12月、赤軍による観音像と「七士の碑」の石塔が爆破されたことだ。
 2人の男は、1人がアタッシュケース、1人が三越デパートの手提げ紙袋を持ち、山道を上がってきている。
 すれ違った三女の妙淨は「おかしいわ。お歳暮をもってくるなんて」と不思議に思いながら通りへ下りたそうだ。
 その日、時限爆弾がしかけられていた。
 ひとつは興亜観音の腹部の辺りに。もうひとつは「七士の碑」の石塔に。
 石塔の方は強烈な音と共に爆発し、その音は熱海駅近くまで聞こえたそうだ。
 ところが観音像の時限爆弾は、セットミスのせいか、ついに爆発しなかった。不幸中の幸いというものだろうか、話しを聞いているうちに、私は「セットミスではなく、むしろ犯人は興亜観音に出会ったとき、慈悲深い顔故(ゆえ)に、爆破する意志をなくしていたのではなかったか」と思った。
 右の人も、左の人も、この興亜観音は慈悲深く、懐に抱いてくれるからである。
 私は興亜観音と出会った瞬間から「世界中の観音を取材して歩こう」という気になった。


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