南京事件の無実と興亜観音に詣でて
曽木義信(熊本市)


 松井閣下が極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判において、南京大虐殺という濡れ衣をきせられて処刑されたことは、全くいわれのないことであり、一方的な断罪に多くの国民は大きな怒りと不満を持っていたが、敗戦国として手の施しようもなく誠に残念に思うのみであった。
 昭和57年(1982)夏、新聞の誤報から教科書問題が発生し、それは忽(たちま)ち中国に波及し、鈴木内閣の宮沢官房長官は、事実を調べぬまま北京に飛び「今後教科書問題についてはふれない」旨の一札を入れた為、「侵略」とか「南京大虐殺」は、教科書の中で堂々と一人歩きをするに至った。
 こうなると将来を担う児童生徒への影響ははかり知れ得ざる重大な虞(おそれ)がある。
 これを憂(うれ)いて熊本県退職校長会、日本郷友連盟等より教科書是正方を政府に請願した。
 一方「南京大虐殺」は、8年も経った終戦の年の12月、突如として叫ばれ始め、南京参戦者達にとって全く意外なことであった。
 しかもそれが東京裁判において、松井大将はじめ日本側の証言は全く信用されず、でたらめな証言により一方的に断罪され、その麾下にあった私共の郷土の第6師団の谷寿夫師団長は中国に召喚され、昭和22年(1947)にかつての激戦地であった雨花台に於(おい)て、鹿児島歩兵45連隊の田中軍吉大尉らとともに銃殺刑となった。
 巷で噂されるのは、大虐殺の大半はこの第6師団と言われたが、どうしても納得の行かない事であった。
 南京戦に参加した兵は、現役と予備役で編成され、皆が正規の教育を受けた兵ばかりで、軍紀が正しく戦いには強いが、決して無道の行為をする集団ではなかったのである。
 この無実の罪を晴らすべく、「南京問題」についての会をしばしば開いたが、虐殺説に洗脳された人々によって反論され、自分が参戦していない悲しさ、虐殺否定の決め手がなく、切歯扼腕(せっしやくわん)苦悩の末、第6師団管下の歩兵第13連隊を中心に、当時の参戦者の調査にとりかかり、熊本県郷友連盟に尽力を願ったところ、参戦者の会を開くことになり、昭和60年(1985)12月12日(南京攻略の日)に、熊本市に於(おい)て第1回「南京戦を語る会」が発足した。
 その後、毎年同じ日に「南京問題を語る会」と称して熊本市で当時の参戦者の会を開き、回を重ねるにつれ県下各地から集まって人数も多くなり、この会では当時の状況をありのままに体験を語ってもらっている。
 それが毎回誰1人として虐殺なるものを見た者もいなければ聞いた者もいない。何の噂も無かったということである。
 昨年まで会を重ねること10回、第6師団に関しては、今までの各人の証言を帰納的に見て、虐殺は全くなかったという結論に達した。
 こうして見ると谷師団長の処刑は無実の罪であり、田中軍吉大尉らも同様全く無実であり、何とかしてこの冤罪(えんざい)を晴らさねば申し訳ないというのが生き残った者の声である。
 第10回の折り、第16師団の福知山歩兵20連隊の森王大隊長をお招きして講演いただいた。
 この部隊も虐殺全く無し、虐殺が最も行われたといわれる昭和12年(1937)12月13日より翌年の1月下旬という時期に、この地区を警備された方の証言であるから、これこそ間違いの無い第1級の証言である。
 これによって南京虐殺は全くのデッチ上げであり虚構であることがはっきりした。
 こうした事実により昨年から首相、外相、文相、官房長官宛てに、南京問題については、参戦者の証言を取り上げるよう要望書を提出して、1日も早く事実が明るみに出るような活動えお続けている。
 たまたま、松井閣下の御発願によっての由緒深い興亜観音のことを耳にして以来、是非一度お参りして尊いみたまにふれ、何とかして無実への一層の努力を強める決意をした。
 今年の5月18日の例祭にお参りさせていただき感激でいっぱいであった。そして御両親の意志をついで、一生を捧げて黙々として観音さまをお守りしていられる伊丹三姉妹のお姿に接し、日本国民たる者は1人でも多くの人がこの「興亜観音を守る会」に入会して、松井大将のい御意志にふれ、真の恒久平和へ尽くしていただくよう切に願うものである。
(日本世論の会、熊本県支部事務局長)


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