松井石根大将の陣中日誌
田中 正明(たなか まさあき)
書籍名 | 松井石根大将の陣中日誌 |
著者名 | 田中 正明(たなか まさあき) |
出版社 | 芙蓉書房 |
現在絶版です。 | |
定価 | 2800円 |
詳細情報 | 昭和60(1985)年5月30日発行。 『陣中日誌』の詳細については以下の文章を参照して下さい。 (35ページから41ページを引用) |
『陣中日誌』発掘
松井石根大将が処刑されてから34年を経た昭和57(1982)年の11月、私は松井の養女松井久江さん(大阪府堺市在住)から、大将の恩賜(おんし)の銀時計、恩賜の軍刀や勲章をはじめ、中支派遣軍司令官のとき天皇、皇后から拝領したご下賜品や軍服、胸像のたぐいいっさいが、静岡県御殿場市の自衛隊第37連隊(板妻駐屯部隊)に保管されていることを聞いた。
私は直感的に、もしやその中に大将の日記類や手記などがありはしないかと思い、その事を尋ねたところ、記憶にさだかではないが、あるかもしれないという返事であった。
私はすぐさま御殿場にとんだ。
中才(なかざい)部隊長(1佐)はこころよく私の申し出に応じて、大将の遺品類を所蔵してある倉庫保管係りの小林秀次曹長に命じ、私を案内させた。
倉庫といってもバラック建の物置である。
板妻駐屯地は翌(昭和)58年、立派な「資料館」を新築し、松井大将の遺品は、同連隊出身の日露戦争における軍神橘大隊長の胸像や遺品と共に、今では大きなガラスケースの中に保存されている。
しかし当時は薄暗いバラック建ての物置であった。
その物置の木箱の底に、松井大将の日記5冊が、ホコリをかぶって眠っていた。
私は緊張にわななく思いで、そのいちばん上の1冊を手にした。
正しく見覚えのある松井大将の筆跡である。
博文館のA5版の平凡な市販の日記帳であるが、その最初のページには『陣中日誌』とある。
次のページには「昭和12年11月1日」とあり、「周宅に軍司令部移転」という書き出しから始っていた。
この陣中日誌は、11月1日からはじまって、南京攻略を終えた大将が、内地に帰還し、天皇に復命したのち、参謀本部に行き、陸軍大臣、同次官立会の下に閑院宮参謀総長殿下に出征以来の状況を報告した翌年2月28日まで、ほとんど1日の休みもなく、びっしり書き込んである。
これこそ南京問題に関する「未公開の第一級資料」である。
私の胸は早鐘のように鳴った。
そこに松井大将の亡霊が現れたような幻覚すら覚えた。
残りの4冊は『獄中日誌』である。
A5版よりやや小型の同じく市販の博文館日記である。
第1巻 | 昭和21年3月5日から6月15日まで |
第2巻 | 昭和21年6月16日から10月14日まで |
第3巻 | 昭和21年10月15日から22年4月10日まで |
第4巻 | 昭和22年4月11日から12月31日まで |
これまた未公開の日誌である。
この4冊は、ある時は万年筆で、ある時は筆で、また鉛筆で、これまた1日の休みなく綴(つづ)ってある。
これら5冊のほかに、松井石根大将が陸軍少尉に任官してから昇給ごとに受領した辞令の束(たば)と、叙勲や賞状などの束が出てきた。
私はこれらを借用すべく中才部隊長にお願いした。
部隊長は預託者である松井家の了解を得て欲しいとのことであった。
もっともなことである。
その手続きを終えて私がこの5冊を借用したのは昭和57(1982)年の歳の瀬も迫った12月29日のことであった。
なお、久江さんの紹介で、元自衛官の高田昇氏(静岡県三島市在住)が、大将の若干の手記類を保管していることが分かった。
高田氏は私の要請にこころよく答え、それらの手記を一括して私のもとに郵送してくださった。
その内容は次の通りである。
『支那事変日誌抜粋』 | (昭和20年12月記) |
『我等の興亜理念併其運動の回顧』 | (昭和21年 1月記) |
『検事の取調の要旨』 | (昭和21年3月7日―4月5日) |
『起訴状に対する意見』 | (昭和21年6月15日記) |
『キーナン首席検事の冒頭陳述に対する意見』 | (昭和21年8月12日記) |
『南京虐殺・暴行に関する検事側証言に対する抗議』 | (昭和21年8月12日記) |
『宣誓口供書=松井石根草稿』 | (法定第3498号) |
『獄中日記』第5巻 | (昭和23年4月14日―11月12日判決の日) |
なぜこのような貴重な資料を高田氏が保管していたのか、ということについて久江さんは全く記憶にないと言っている。
しかし、板妻駐屯部隊に松井大将の遺品を預託したいきさつについては、次のような経緯があった。
かつて松井大将の旧部下で、松井大将を敬慕する部隊長が、興亜観音の荒廃をなげき、部下を率いて鳴沢山の参道の清掃や草刈りなど奉仕作業をした一時期があった。
また、松井夫人も東條夫人らと共に招かれて板妻自衛隊の参観もしたという。
高田氏はそのころの自衛官で、隊の命を受け、松井家に出入りするうちに、昵懇となり、松井家の相談事にも乗るようになった。
言い忘れたが、松井大将は35歳のとき磯部文子と結婚したが子供がなく、姫路の連隊長のときから忠実に支えている久江さんを、大将入獄中に養女に入籍した。
したがって大将没後は文子、久江の女ばかりの2人暮しであった。
文子夫人は昭和48(1973)年2月この世を去り、久江さんも本年八十(やそじ)路の坂を越えたという。
高田氏は同じく自衛官であった小俣洋三氏とともに、この2人の老女の相談相手となり、夫人生存中に夫人の意志により、高田氏が仲介に立って大将の遺品を板妻駐屯部隊に預託することになった。
おそらくその時、便箋などの用紙に書いた書類は紛失の恐れがあるというので、一束にして自宅に保管していたのであろう。
ただひとつ、遺憾に思うのは『陣中日誌』の第1巻、すなわち昭和12年8月15日、大命を奉じて、約2個師団をひきいて呉淞(ウースン)に敵前上陸を敢行し、悪戦苦闘した10月31日までの2ヵ月半の日誌が欠落していることである。
板妻にもなく、久江さんも高田氏も全然記憶に無いという。
八方手をつくして探してみたが遂に発見することが出来なかった。
そこで私は、昭和58(1983)年夏、(大阪府)堺市在住の久江さんのお住まいを訪ね、久江さんと一緒に所蔵の行李(こうり)の底まで探した。
しかし『陣中日誌』第1巻はついに見つからなかった。
が、そのかわり旅行記が見つかった。
この旅行日記が、本著掲載の『西南游記』である。
『“南京虐殺”の虚構』出版
これらの日誌類を原稿用紙に筆写するのに、結局私は1年近くの日子を費やしたことになる。
大将の文字は変体仮名にちかい草書体で、しかも兵馬倥偬(へいまこうそう)の間の走り書きである。
また獄中記のごときは紙の質もインクも悪質で、インクや鉛筆の跡がかすれていて、判読するのに非常に苦労した。
時には1ページ筆写するのに半日以上かかったことがある。
私が松井大将の未公開の『陣中日誌』を手に入れて筆写していることを、文藝春秋のオピニオン雑誌『諸君!』の編集部がどこからか嗅(か)ぎ出し、ぜひいま問題となっている“南京虐殺事件”を、その松井大将の未公開の日誌にもとづいて書いて欲しいという要請をうけた。
かくして大将の日誌の一部がはじめて日の目を見た訳であるが、それが『諸君!』の昭和58(1983)年9月号に掲載された『“南京虐殺”松井石根大将の陣中日誌《未発表資料》』という文章である。
この一文は、意外に各方面に大きな反響を呼んだ。
私はこの文章のなかで、「かねてから南京に何万という“大虐殺”が行われたという説に疑問を抱いていたが、このたび発掘された松井軍司令官の陣中日誌を読むにおよんで、“南京虐殺”は全くの虚構であるという確信を得た。近く私はこの虚構を1本にして世に問うつもりである」という意味の事を書いた。
これを読んだ3〜4の出版社から、その本はいつ出すのか、原稿は出来ているのか、わが社で出版させて欲しいという問い合わせが相次いだ。
ことに日本教文社は熱心に督促し、編集長以下編集者が、居座るようにして私に原稿を急がせ、これを上梓した。
それが『“南京虐殺”の虚構=松井大将の日記をめぐって』と題する著書である。
昭和59(1984)年6月に刊行したが、おかげで好評を得て5版を重ね、7月には盛大なる出版記念会が催され、各界の大先輩や朋友からひじょうな激励と過褒の詞をいただき、会には異状な熱っぽい雰囲気を醸(かも)した。
それというのも、この年の3月、私をふくむ6人の同志によって、教科書是正のための訴訟を東京地方裁判所に国(文部省)を相手取って起こしていたからである。
昭和57(1982)年夏、ジャーナリストの誤報から端を発した教科書騒動のとき、鈴木内閣は中・韓両国の不当な内政干渉に屈服して、
(1) | 政府の責任において是正する |
(2) | 検定基準を改める |
(3) |
それまでの措置として文部大臣が所見を明らかにして教育の場に十分に反映せしめる |
・・・・・・といった平謝りの土下座外交に終始したため、昭和59(1984)年4月から使用する中学・高校の歴史教科書は、今までの自虐的な左翼偏向の記述がますます野放図となり、歴史の事実まで歪曲(わいきょく)して“日本悪玉論”を鼓吹(こすい)・誇張する全く国辱的なシロモノとなってしまった。
例えば、満州事変、支那事変、大東亜戦争など日本の軍事行動はすべて「侵略戦争」であるとハッキリ規定しており、これに反してソ連や東欧の侵略は「進出」だとか「侵攻」「兵をおいた」と記述するという不公平な表現になっている。
すなわち自らの国を国際犯罪国として断罪する「侵略」オンパレードの教科書になってしまったのである。
北方領土問題は、どの教科書も、ソ連の言い分が正しい。
返還はあきらめよ、といわんばかりの記述である。
南京事件についても“大虐殺”があったという極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)がねつ造した虚偽や風聞にもとづき、しかも20万、30万という根拠無き誇大数字まであげ、そのうえ女子供をふくむ多数の中国人を虐殺して世界の非難を浴びた。
日本国民には知らされなかった、という、ウソの記述までして、日本軍の残虐性を誇張している。
このような教科書で日本の次代を担(にな)う子供たちが教育を受け成長するとしたら、一体日本の将来はどうなるか、という配慮から提訴という行為に踏み切った次第である。
本来ならば、松井軍司令官の陣中日誌という、もっとも権威ある第一級史料を速やかに出版し、南京事件解明に役立てるべく、江湖に訴えるべきであったが、以上のような理由により、この上梓がはなはだ遅れたことを謹んでお詫びしたい。
関連項目:[1] [2]
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