中国共産党の記録にもない

中国共産党、毛沢東(左)と朱徳 中国共産党、周恩来
毛沢東(左)と朱徳(右) 周恩来(上)

 それでは当時、中国共産党および共産軍は南京事件をどのようにみていたか?
 もし伝えられるごとき何十万もの大虐殺―――いうところの南京アトロシティーがあったとするならば、これこそ絶好の抗日宣伝の材料であり、人民に味方し、国民党を批判する立場にある彼らが黙って見過ごすはずはない。

 ところが共産党も共産軍も、南京陥落については国民党のだらしなさを非難しているだけで、「南京虐殺事件」のことなどどの文献にも出てこない。
 「何応欽将軍の軍事報告同様、南京に大虐殺があったという記録はどこにも見当たらない」―――高木桂蔵氏は次のように指摘する。
 「抗戦中の中国軍事」という本が中国大陸で出ている。

 当時の中国側の軍事に関する刊行物を集めたもので、この中に当時出版された中国共産党の「軍事雑誌」1938(昭和13)年6月20日、刊行第109号があり、その中に初めて南京の戦闘記録が出ている。
 その部分は次の通りである。

 「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京・・・・・」(原文のまま)。

アメリカ人ジャーナリストで共産党支持者のアグネス・スメドレー
アグネス・スメドレー(上写真)
ドイツ人でソ連共産党スパイであったリヒアルト・ゾルゲ
リヒアルト・ゾルゲ(上写真)
朝日新聞上海特派員であった尾崎秀美はゾルゲのスパイでもあった。
尾崎秀美(朝日新聞上海支局特派員)上写真

 すなわちどこにも、日本軍による市民の虐殺とか捕虜の大量殺戮のことなど出てこない。
 もし万一あったとしたら中国共産党は黙っていなかったろう。(「月曜評論」59・2・27)

 南京事件について、日本人が知らなかったと同様、中国人も――中国共産党も国民党も――知らなかった。
 知らなかったのではない、このことはそうした大事件などなかった何よりの証拠である。

 「中国の歌ごえ」を著した著名な米人作家アグネス・スメドレー女史
 ――彼女は日本の進路を変えたとまで言われるソ連のスパイ、リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実を上海で会わせたコミュンテルンのメンバーでもある

 ――が毛沢東、朱徳、周恩来ら共産党幹部と起居を共にし、延安から漢口へ移るまでの詳しい日誌を書いている(邦訳「中国は抵抗する」=岩波書店)。

 それには南京陥落という記述があり、その感想については述べているが、日本軍の暴虐や大量殺害にかんしてはこれまた全然触れていない。

 1938年(南京事件の翌年)夏、インドの医師団5名が医療救護班を組んで漢口にやってくる。
 彼らは国民党や共産党の首脳らと会談しており、その記録が残されている。

 中国側はずいぶん日本軍の犯罪行為や、各地での戦闘状況などくわしく述べているが、ここにも南京事件に関しては全然触れていない。
 これを要するに、台湾の中華民国政府も、北京の中華人民共和国政府も、“南京大虐殺”の合唱をはじめだしたのは、日本が戦争に敗れ、連合国によって一方的に裁かれた東京裁判や各地でのB・C級戦犯裁判が始まってからのことである。

 
それまでは南京事件はなかったのである
 日本人ばかりでなく、
中国人にとっても、南京事件は東京裁判から始まったのである
 
 例の中国の公式資料と称する「証言・南京大虐殺」を翻訳した姫田光義氏は、事件当時、国民党にも中共側にも、南京事件に関する記録が何一つ存在しないことに触れて、まことに奇妙な解釈を下している。
 紹介しよう。
 
 姫田氏は「南京大虐殺から3、4年たって発行された中共側の抗日戦争に関する比較的まとまった書物の中にもこの事件(南京事件)のことは依然として触れられていない」と告白し、その理由として、「中国側がこの事件を大々的に取り上げていないのは、抗日民族統一戦線が出来たばかりなので、国民党に対する政治的配慮があったからだと思われる」と言うのである(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)218ページ)。 
 
 冗談も休み休み言ってもらいたい。
 延安の時事問題研究会で発行した「抗戦の中国叢書」(1941年刊行)のうちの一冊「抗戦中の中国軍事」の中では、南京の失陥は国民党軍の作戦の拙劣さにあったといって「わが退却部隊を極端な壊滅的混乱に陥いれたものは誰か」ときびしく責任を追及し、国民党軍の作戦の拙劣さを徹底的に非難している。
 
 のみならず「嘆かわしかったのは若干の政府高官が、遷都の正しい意味を理解せず《逃亡》だと考え、冷静さを失い、理性を失い、人心を動揺させ、外国人に嘲笑されるような現象を生み出した」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)219ページ)と、完膚なきまでに国民党政府指導者をやっつけている。
 
 ここまで批判しながら、南京事件には一言も触れていないのである。
 さらに姫田氏は、「南京大虐殺のニュースが、当時はそれほど大きな反響が(中国内で)おこらなかったのは、日本の報道管制がこのニュースを一般中国人に知らせなかったことが一番大きな理由であろう」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)217ページ)と言っている。
 
 日本の報道管制(?)が中国政府や中国のジャーナリズムを沈黙せしめたとでも言うのであろうか?
 日本は南京事件に関し報道管制も箝口令(かんこうれい)も敷いていない。
 
 よしんば敷いたとしても、中国民衆の声を抑圧し、沈黙せしめるほどの威力などあろうはずがない。
 子供だましのような評論である。
 
 「朝日」は書評で姫田氏のこの解説を「光っている」と評価しているが、一体何が光っているのだろうか?
 その中国共産党が、半世紀近くも経た今日「南京では40万人の人々が虐殺された」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)162ページ)「動かぬ証拠は山の如く、言い逃れは許さない」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)60ページ)と声高に叫び始めたのは一体どうしたことなのだろうか?

1938年インド国民会議は医療施設団を派遣し、その際の写真
インド医療使節団が1938年に武漢八路軍弁事処に到着した際の写真

※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

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