箝口(かんこう)令など布かれていない

石川達三・・・1938年3月
石川達三(上写真) 「生きてゐる兵隊」(上写真)

 教科書には「日本国民には知らされなかった」(中教出版)とある。
 それならば、「南京事件」について喋ってはいけない、という箝口令が軍なり政府なりから出ていたのであろうか?
 
 答えは全然「NO」である。
 「虐殺派」の中には、戦争中、とくに昭和12年末から13年の春にかけて、かくかくの発禁処分や処罰を受けたものがいるといって、あたかも南京事件に関して箝口令が布かれていたかのごとく言う論者もいるが、その内実を見ると、それらはことごとく(流行卑語)に類するもので、流言蜚語取締法にふれたモノのリストアップであって、南京事件には何ら関係ないのである。
 
 戦時下の流言蜚語の取り締まりは、いずれの国においても当然の行政措置として行われる。
 石川達三氏の「生きている兵隊」で、「中央公論」(昭和13年3月号)が発売と同時に発禁になっている。
 
 その理由は、当時の「出版警察法」によると次の通りである。
 
 
「生きている兵隊」と題する記事は皇軍の一部隊が北支戦線より中支に転戦白卯江(はくぼうこう)に敵前上陸し、南京攻略参加に至る間の戦闘状況を長編小説に記述したるものなるが、殆ど前貢に渉(わた)り誇張的筆致をもって、
 
 (イ)我が将校が自棄的嗜虐的に敵の戦闘員、非戦闘員に対し、ほしいままに殺戮を加うる場面を記載し、著しく残忍なる感を深からしめ
 (ロ)又南方戦線に於ける我が軍は略奪主義を方針としているがごとく不利なる事項を暴露的に取り扱い
 (ハ)我が兵が支那非戦闘員に対しみだりに危害を加えて略奪する状況
 (ニ)性欲のために支那人婦女に暴力を揮う場面
 (ホ)兵の多くは戦意喪失し内地帰還を渇望し居れる状況
 (ヘ)兵の自暴自棄的動作並に心情を描写記述し、もって厳粛なる皇軍の規律に疑惑の念を抱かしめた

 
 この理由を見ても解るように、この発禁はあくまで一般的な軍に対する。誹謗の規制で、特に南京で起きた何かを隠蔽せんとするものではない。
 当時の規制をみると、12月13日に「海・陸軍省令による新聞記事取り締まりに関する件」として「揚子江方面において我が軍が第三国の艦船に被害を与えたるやの件」―すなわちパネー号、レディバード号事件の報道が規制されている(但し15日には解除)。
 
 上海戦に参加した第11師団が凱旋することになり、これに関しても記事の規制が行われている。
 このように前もっての規制の外、随時省令などが出されていたが、南京事件の報道についてはこのような陸軍省令、海軍省令、外務省令など全然出されていないのである。
 
 なお、前もって行われた報道規制を守らなかったため、南京の報道で禁止処分になったものが3件ある。
 12月17日の「大阪朝日新聞」、21日の「東京日々新聞」、25日の「国民新聞」の3紙である。
 
 これらはすべて、「揚子江上流において我が海軍が実施中の水路開発作業並に其の推進状況に関する軍事機密をバクロしたもの」(「出版警察法」第110号)である。(この項は阿羅健一氏の調査による)。
 筆者は取材中、参戦した将兵の方々に、最後に必ず次のような質問をすることにしている。
 
 「南京事件に関して、喋ってはいけない、書いてはならぬ、といった箝口令のようなものが上官からありましたか?」と。
 答えは一様に「とんでもない、何もありませんよ。」という返事であった。
 
 同じ事を従軍記者の方々にも聞いてみた。
 やはり同様「全然ありません、ただし自主規制はしていましたがね、これは報道にたずさわる者の常識です。」これが特派員諸子の異口同音の声であった。


※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

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