目撃者のいない"大虐殺"

昭和12(1937)年12月15日、南京の旅館前にて毎日新聞の記者、カメラマン、無電技師、運転手連絡員。向かって右手、中列右から2人目のメガネをかけた皮コート姿の人物は若き日の大宅壮一。

(1)120人の報道員とカメラマンは何を見たか

 鎌倉市よりも狭い南京城内に、日本の新聞記者やカメラマンが、約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていながら、前述の今井正剛、鈴木二郎記者の虚構を除くほかは、1人として婦女子の虐殺や一般市民および捕虜の大量虐殺などは見ていないのである。
 当時、「朝日」「東日」「読売」「日経」など全国紙の各支局をはじめ、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。
 
 これらのプレスマンが異口同音に言うには、「東京裁判で、南京にあのような大事件があったと聞いて驚いた」である。
 これは南京に入城した将兵たちもほとんど同様である。
 
 当時、読売新聞の上海特派員だった原四郎氏(現在読売新聞社顧問)は「世界日報」の記者にこう述べている(57・8・31)。
 「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ヶ月後のこと。当時、軍による箝口令(かんこうれい)が敷かれていた訳ではない。
 
 なぜ今頃こんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった。」
 これと同じ意味のことを東京日々新聞特派員五島広作氏が書いている。

南京事件の真相(上写真)

 氏は昭和41(1966)年4月に「南京作戦の真相=第六師団戦史」という著書を熊本日々新聞から出版している。
 「自分が南京戦を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京に虐殺事件があったらしいといった噂を耳にした。おどろいて、上海に支局をもつ朝日や読売や同盟など各社に電話を入れてみた。どの社も全然知らぬ、聞いたこともないと言う。おそらく敵さんの例の宣伝工作だろうというのが話のオチであった。」

 これが各紙特派員の当時のいつわらざる実情のようである。
 最近、畠中秀夫氏が、じゅん刊「世界と日本」に「聞き書き 昭和十二年十二月南京」と題して、南京に入城した著名人の聞き書きを書いている。

 その中で死去する少し前の石川達三氏とのインタビューは特に興味深い。
 石川氏は前述の通り小説「生きている兵隊」で発禁処分を受け、執行猶予付きながら、実刑を科せられているのである。畠中氏はその石川氏と次のような問答をしている。

石川達三
石川達三(上写真)
橋本登三郎
橋本登美三郎(上写真)

 「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です」
 
 
――― そのときどのような虐殺をご覧になられましたか?
 
 「大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません」
 
 
――― いわゆる「南京大虐殺」をどう思いますか?
 
 「何万の死体の処理は、とても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今でも信じておりません」(同書14ページ)。
 
 自著が発禁になり、実刑まで受けた石川氏の言葉だけに重みがある。
 本多勝一氏は「南京への道」で、石川氏の「生きている兵隊」を引用して、南京大虐殺の有力な立証の材料に使っているが、石川氏に言わせるなら、迷惑千万な話だった訳だ。
 
 畠中氏はもう一人異色の人物にインタビューしている。
 当時「朝日」の上海支局次長であった橋本登美三郎氏である。田中内閣の時、自民党の幹事長や運輸大臣まで務め、ロッキード事件に連座して控訴中の人物である。
 
 氏は「朝日」の記者15人ほどを引き連れて、南京に一番乗りしたことで有名である。氏は畠中氏にこう答えている。
 「南京の事件ねえ。全然聞いていない。もしあれば、記者の間で話にでるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは互いに話にするし・・・それが仕事だからね。噂としても聞いたこともない。朝日新聞では現地記者ばかり集めて座談会もやったが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとか、そんな話が出るはずだ」
 
 もう一人、「朝日」の大先輩でやはり南京特派員であった足立和雄氏は畠中氏にこう答えている。
 「私は南京大虐殺なんて見ていません。あなた(畠中)がどういう立場の人か存じませんが、南京大虐殺の証言はできませんョ」
 
 きつくそう断られたが、押し問答の末、立場をはっきりし、お目にかかった、畠中氏はかねて疑問に思っていた“虐殺目撃者”として名乗り出た「朝日」の記者今井正剛氏について尋ねてみたそうである。
 足立氏は一言のもとに、今井氏をこう評したと言う。
 
 「あれは自分で見て記事を書く人ではなかった。人から聞いたことを脚色するのが上手かった。」
 
 婉曲に彼の「文芸春秋」で発表した2万人の虐殺を見たかのごとき作文など怪しいものである旨示俊したのである。
 はからずも同じ「朝日」の森山喬氏が筆者に語った今井評と一致する。
 
 森山氏も彼の虚言を立証している。
 なぜなら当時彼と一緒に南京で寝室を同じくして取材しているのに、そんな話はついぞ聞いたことがないと言うのである。

(2)南京入城者の証言

 阿羅健一氏は、雑誌「正論」に61(1986)年5月号から「日本人の見た南京陥落」を連載している。
 南京戦に参加した新聞記者、カメラマン、将兵等を訪ね、占領後の南京の模様について克明にインタビューし、それをそのまま記録した連載ものである。紙幅の関係で詳述はさけるが、61年5月号から12月号にいたる8回の登場者とその所見は次の通りである。
 
 主に“虐殺”の有無について抄出した。番号はその回数である。

1、最初の面接者は、上海派遣軍参謀 大西一大尉
 
 同大尉は2課の情報参謀で、最年少。引き続き南京特務機関長に就任、約1年在勤。
 「私は長参謀の下にいましたが、長参謀が命令(筆者注・やっちまえという虐殺命令のこと)を出したということは、見たことも聞いたこともありません(中略)。
 また、情報担当の長参謀が命令するというのもおかしな話です」

 ―――第16師団の中島(今朝吾)師団長の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、これが捕虜虐殺の証拠と言われていますが?

 「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集まっていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」

 ―――上海派遣軍の中で虐殺があったという話はありませんでしたか?

 「話題になったことはない。第2課も南京に入ってからは、軍紀、風紀の取り締まりで城内を回っていました。私も城内を回った」

 ―――何も見ていませんか?

 「一度強姦を見た」

2、松井軍司令官付陸軍通訳官 岡田尚(おかだたかし)氏 降伏勧告文を翻訳し、軍使に加わる。

 「城内には死体はありませんでした。ですから一般市民に対しての残虐行為はなかったと思います」「火事があったとよくいわれますが、私には記憶ありません」「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして(中略)その渡河の途中、混乱がおきて、撃ったと言うことは聞きました」

3、上海派遣軍特務部員 岡田酉次(おかだゆうじ)少佐

この写真は昭和13年に発足した汪兆銘政権の顧問当時の写真
岡田酉次(上写真)
佐藤振壽(さとうしんじゅ)さんが南京の中山陵前にて
佐藤振壽(上写真)

 「あの南京攻略戦を見てますと、中国軍の中には女がいました。私も女の中国兵が倒れているのを見ています。また敗残兵といっても抵抗するのもいたし、便衣兵というものもいて、これらがやられるのを見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか?」

4、東京日々新聞カメラマン 佐藤振寿(さとうしんじゅ)

 ―――虐殺があったといわれますが?

 「見ていません。虐殺があったと言われていますが16、7日頃になると、小さい通りだけではなく、大通りにも店が出ました。また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていましたから、とても残虐な殺しなどがあったとは信じられません」

 ―――南京事件を聞いたのは?

 「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思います。NHKに「真相箱」という番組があって、そこで南京虐殺があったとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。

5、同盟通信映画部カメラマン 浅井達三

 ―――同盟通信のなかで虐殺というようなことが話題にならなかったですか?

 「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが戦争だとおもっていましたから」

6、報知新聞従軍記者 田口利介

 ―――南京で虐殺があったといわれますが?

「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」

7、同盟通信無電技師 細波孝

 「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛ってつないでいたのもありました」
 
 
―――死体の数はどのくらいですか。
 
 「さあ、どのくらいか。百人くらいでしょうか。湯山にいた捕虜をやったのでしょう」

8、都新聞記者 小池秋羊氏(12月13日入城)

 「城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。犬・猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました」
 
 
―――その他の難民区の様子はどうでした?
 
 「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般に平静でした。
 また食糧が無く飢餓状態で、食糧をくれと我々にすがりつく人もいました。
 
 私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車2台分やりました。
 難民区には6、7万人いたので、これだけでは九牛の一毛だったと思います」
 
 
―――南京では虐殺があったといわれますが、そういう死体を見ていますか?
 
 「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばにつくりかけのビルがあり、この地下に数体の死体がありました(中略)。
 それと、把江門だったと思いますが軍のトラックでここに行った時、車に何度もひかれてせんべいのようになっていた死体が一体ありました(中略)。
 下関にあるドック、それはグラウンド・スタンドのような円形の造船所ですが、そこに累々たる死体が投げ込まれているのも目撃しました」 
 
 
―――ドックの死体はどのくらいですか?
 
 「5体や10体じゃなかったと思います。何10体かあったと思います。
 これは戦死体だと思います」
 
 
―――その他に死体はありませんでしたか?
 
 「ありませんでした」 
 
 
―――南京で虐殺の話を聞いたことはありませんか?
 
 「ありません」 

 筆者注 なお小池氏は13日、中正路で火事を見たが、そのとき2台の自動車に分乗した外人記者が街を縦横に疾駆して、パチパチとカメラのシャッターを切っていた、と重要な証言をしている。

9、読売新聞技師 樋口哲雄

 「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」
 
 
―――その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが?
 
 「どこで何があったのか知りません」
 
 
―――見たり聞いたりしませんか?
 
 「全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。
 あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。
 やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」

10、東京日々新聞カメラマン 金沢善雄

 「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、不思議でしようがないのです。
 私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません」
 「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。
 ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」

11、読売新聞上海特派員 森博

 「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなかったと思います。
 逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました。」
 
 「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない。
 放してもまた兵隊になる。それで困ってやったと言っていました・・・下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」

12、第10軍参謀 谷勇大佐

 「14日の11時30分頃でした。
 中華門から入ったが付近に死体はほとんど無かった。
 
 3時頃になり私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵1個分隊を伴い、乗用車で城内一帯を巡回した。
 下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。この岸辺に相当数の死体があった。
 
 千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。
 軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」
 
 
―――戦死体と違いますか?
 
 「城内から逃げたのを第16師団が追いつめて撃ったものと思う。
 これが後日虐殺と称されているものではないか?」
 
 
―――把江門にも死体があったと言いますが、ご覧になりましたか?
 
 「ものの本には把江門もだいぶ(死体が)あるように書いてあるようだ。
 14日午後通ったが、その時は無かったね」
 
 こう言いながら又アルバムを開く。
 14日の悒江門の写真である。
 
 写真は3つの入り口を持った悒江門全体が写っているが、周辺一帯に死体らしきものは見当たらない。
 「雨花台でもやったと書かれたものがあるが、そういう死体は全然なかった」

13、第10軍作戦参謀吉永朴少佐

 「13日早朝、中華門から入りました」
 
 
―――その時の南京の様子はどうでしたか?
 
 「儲備銀行に行く途中、身分いやしからぬ中国人の家族に会いました。そこで私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、と書いて渡しました。当日(13日)家族が歩ける位ですから、城内が落ち着いていることが解ると思います」
 「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。
 揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体がありました――数千はあったと思います。第10軍は南京の南側からだけ攻めたのではなく、国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います。」

14、第10軍参謀 金子倫介大尉

 「南京に入ったのは13日か14日だと思います。
 城内では一人の死体も見ませんし、一発の銃声も聞きませんでした」
 
 
―――それでは、そのころ南京事件は聞いたことがなかったのですか?
 
 「ええ聞いたことはありませんでした。戦後東京裁判で聞いてびっくりしました。
 何か隠しているとか、言い渋っているとか言うことではなく、本当に南京では何も見ていません。南京では印象に残るようなことはなかったのでしょう」

15、 報知新聞カメラマン 二村次郎

 ―――南京虐殺ということが言われていますが。
 
 「南京にいる間見たことがありません。
 戦後よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。
 
 逆に人が書いたものを見たりしています。
 アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね、私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判の時です」

(3)作家・評論家の南京視察記

 南京に入城したのは約120人の新聞記者やカメラマンだけではない。
 大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、あるいは西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。
 
 このほかにも、南京陥落後、13年の春から夏にかけて、南京を訪れた有名人は大勢いる。
 これらの人々は、帰国するや色々な雑誌や新聞にレポートを書き、講演もしている。
 
 例えば、杉山平助氏は朝日新聞に「南京」を連載している。
 木村毅氏は「江南の早春」を、林芙美子氏は「南京行」を、小林秀雄氏は「杭州より南京」を、詩人の草野心平氏と「実業の世界」の野依秀市社長が期せずして2人一緒に南京に入り、野依氏は同誌に「楽土激土」を書き、草野氏は「支那点々」を書いている。
 
 2人とも南京市の城壁の内外を車と足で歩いているが、その視察記はまことにきめ細やかな描写で、臨場感にあふれており、さすがだと思う。
 しかしそれらの視察記や紀行文の中には"大虐殺"を匂わすような文章はどこにも見当たらない。
 
 終戦になり、東京裁判が始まって、軍の作戦や旧軍人に対する批判が高まった時でも、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。
 批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった。

筆者の見た南京

 実は筆者(※田中正明)も、雑誌「大亜細亜主義」の従軍記者として、南京事件の翌年の昭和13(1938)年8月、南京を約1ヶ月にわたって視察し、9月から始まった漢口攻略戦に、林芙美子氏らと共に第6師団の北岸部隊に従軍し、11月、武漢一番乗りの部隊とともに入城した。
 大亜細亜協会会長松井石根大将から、その後の南京一帯の治安の状況や民心の動向などよく視察してくるようにと言われ、何通かの紹介状も頂いた。
 
 従って一従軍記者ではあったが、南京特務機関長や報道部長の特別の便宜を受け、南京城内外の古戦場や近郊の下関、雨花台、紫金山はもとより、湯水鎮、仙鶴門鎮、句容、浦口まで足を伸ばし、くまなく見て回ることができた。私が宿泊したのは、故楼近くの兵站宿舎であるが、そこは難民区の入り口に当たり、まだ歩哨も立っており、"良民証"の点検も行われていた。
 
 難民区内は名物の泥棒市や露天商、マーケットが軒をならべており、活況を呈し、大方巷の一角など早朝から喧騒を極めていた。
 当時すでに人口は50万近くにふくらみ、昔からの色街の秦匯街あたりは日本人経営の料亭や食堂の女性が夜の南京の街を浴衣姿で歩いている風景さえ見られた。
 
 東京裁判や国際委員会の報告等にも市街の3分の1以上が日本軍の放火で灰塵に帰したと告発しているが、これは全くのウソで、下関を除けば、焼け跡は予想外に少なく、街は意外に整然としていたのにはむしろ驚いたほどである。いうまでもなく、約半年ほど前、南京に"大虐殺"があったなどと言う噂も風聞もきくこともなく、ただ各地で、南京攻略戦当時の激戦の模様につき説明を受けたのみであった。
 
 雨花台のトーチカの中で、鎖に足をつないで、死ぬまで抗戦した中国兵の勇敢さと、その鎖を見た印象はいまだに消えない。
 多くの従軍記者やカメラマン、作家、詩人などが口をそろえて言うごとく、
「南京大虐殺」などということは、東京裁判が始まるまで、見たことも聞いたこともない事件だったのである
 
 最後にこのことを証明するかのように、
細川隆元氏が昨年(昭和61、1986)終戦記念日前の日曜日、TBSの「時事放談」で、次のように言われたことを読者も記憶していよう。
 「わしが朝日新聞の編集局長であった時だ。南京に特派した記者達を集めて、南京に虐殺事件があったとかどうとか噂を聞くが、本当はどうだ?と、一人一人に聞いてみた。

 全然その様なことは見たことも聞いたこともありません ―― というはっきりした返事だった。・・・・何万、何十万なんて言う虐殺など絶対にない。絶対になかったとわしは思う」という意味の強い発言をしていたことを付記したい。 


※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

[虐殺否定の18の論拠]へ戻る