パール判決書の意味するもの

 ソ連・コミンテルンは中国共産党に指令を発して、中国各地にソヴィエト政府、共産化地域、共産軍遊撃区を拡大させ反日闘争を展開していった。
 また、中国国民党は党内の親日派と反日派の派閥抗争に揺れながら、アメリカの経済支援を受ける中で、反日姿勢を強化するに至った。
 昭和11(1936)年に西安事件が起こされ、これによってソ連が指導する中国共産党とアメリカが支援する国民党とが合体し、米ソの支援による抗日民族統一戦線が形成されたのである。
 国民党と共産党が合体強化される中で引き起こされた事件が盧溝橋事件だった。
 日本は早期和平を望んだものの、米ソ両国が国民党・共産党を支援し、中国共産党の強引な反日攻勢によって戦線は拡大のやむなきに至った。
 東京裁判において、ただ1人、日本人全被告の無罪を論じたインドのパール判事は、その判決書で、共産主義などの脅威に対し、中国では日本人居留民を保護できる状態になかったため、日本は居留民を軍事的に保護せざるを得なかったという日本の立場を支持した。
 その上で「検察側(連合国)はその最終論告において、・・・・1931年以後、共産主義は中国における日本の権益を脅かすものとはならなかったとみなすように、われわれ(判事側)に要請した。」と述べ、検事側が共産主義の脅威を意図的に隠そうとした事実を明らかにした。
 さらに「弁護側(日本側)はこの共産主義蔓延(まんえん)の危険に関する追加証拠を提出したのであるが、これは関連性がないという理由のもとに、われわれ裁判官によって却下されたのである。本官の意見としては、かような証拠除外をした以上は、この問題に関する最終論告を容認することはできない。」と述べ、東京裁判において共産主義の脅威が判事側によっても隠蔽(いんぺい)された事実を批判している。
 事実、東京裁判の判決文は、日本軍が毎晩激しい夜間演習を無断で行った結果、その緊張と不安の雰囲気の中において盧溝橋事件が起こったとして、日本側だけを悪と決めつけ、共産主義の脅威については全く語っていないのである。
 以上のように、東京裁判は共産主義の脅威に関する証拠を一切排除して、我が国を一方的に侵略国と断罪した。
 裁判において共産主義の謀略や諸事件の事が公平に問われていたならば、我が国は侵略国家であるという一面的なレッテルを貼られることはなかったし、日中間の戦争に対しても公正な評価がなされたであろう。
 今後の研究において、連合国の検察官と裁判官によって無視された共産主義の脅威に関する証拠書類を丹念に見直すことは、支那事変に対する歴史観を改める上で極めて重要である。


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