日米激突
―アメリカの対日戦争意志とは何か

 日本は中国の蒋政権の抗日継続の意志を挫(くじ)くため、米英ソ4国による援蒋ルート遮断を目指して北部仏印進駐を実施し、さらにアジアにおける自由貿易を目指して対日輸出制限を行うオランダ領インドネシアとの経済交渉打開を目指して南部仏印進駐を行った。
 しかしそれらの行動は、アジア全域を、事実上の植民地状態に置こうとしていたアメリカにとっては、アジア植民地の破壊者として攻撃してくる敵対国に日本が見えてきたことは間違いないであろう。
 自由に貿易できるアジアの実現を日本が目指すということは、アジア諸国が欧米宗主国からの政治的自立をはたすところまで行き着く。
 すなわち自由な貿易を求めての日本の東南アジアへの行動は不可避的に欧米諸国のアジア植民地支配体制を打破しようとするものになる。
 アメリカは日本の行動をそう判断するが故(ゆえ)に、危機感を抱き、日本の行動を阻止しようとして強硬に対日圧迫を行い、ついには対日戦争勃発の契機となった石油の全面禁輸、ハルノートの提出に至ったと見なすべきなのではないだろうか。
 我が国が大東亜戦争において、自存自衛の戦いとしての対米戦争と大東亜解放の戦いとを一体の戦争目的として確信していた理由もここにあるのである。
 翻(ひるがえ)ってみるに、アメリカのそうした発想は建国以来一貫していたと考えてよい。
 村松剛氏によれば、日本を開国させたペリー来航の背景には、E・H・パルマーという最高裁顧問であった人物の建白書があり、その内容は「アメリカは東部から西部へと、インディアンを追放しながら西海岸へと移動してきた。つまりは白人の文明を新大陸に強制する。キリスト教を拡大していく、これが神から与えられた明白なる天意(マニフェスト・ディスティニィ)である。我々はもうじき西海岸に到着する。西海岸に到着したら今度は太平洋である。太平洋を渡ってアジアと直接貿易をやろう。どこと貿易するか。シベリア、満州、樺太、千島、支那大陸。」というものであったという。
 アメリカのフロンティアの前進は、思想的にはアメリカ文明を伝えるものであったであろうが、指摘されるべきはアメリカにとってそれがアメリカの経済覇権と同じ意味を持っていたという事実である。
 すなわちアメリカは歴史上、アジアを目指しアジアにおける経済覇権握ろうとしてきたということである。
 さらに村松剛氏によれば、日本のポツダム宣言受諾の報を受けたニューヨーク・タイムズが昭和20(1945)年8月14日付で「太平洋の覇権を我が手に」という見出しの下に「我々は初めてペリー以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで支那大陸のマーケットは我々のものになるのだ」との記事を掲載したという。
 ここにアジアにおける経済覇権をねらっていたアメリカにとって、日本が最大のライバルとみなされ、それ故にアメリカは武力によってでも徹底的に日本を抑圧しなければならなかったという昭和史の真相の一端が示されていると言えよう。


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