欧米500年の世界植民地支配の歴史と日本の存在の意義
――500年の歴史の流れを逆転させた日本

(1)中近東・中央アジアの独立状況

(1) 第1次世界大戦後に起こった大きな変化は、イギリスの支配圏、勢力圏内にあった中近東及び中央アジアにおけるアジア民族(特にアラブ人)の独立であった(地図7参照)
(2) 1919年、イギリスの保護国であったアフガニスタンが、イギリス軍の侵攻を破り独立した。
(3) 1922年、エジプトでは、ワフド党首ザグルル・パシャの独立運動の激化によって、ついにイギリスが、エジプトにおける保護権を放棄。
翌年には憲法が制定され立憲君主国家として独立した。
(4) 第1次世界大戦の敗戦国として西アジアの小国家に転落し亡国の寸前にあったトルコにおいては、1920年、ケマル=パシャが急遽(きゅうきょ)、武装蜂起し、首都アンカラにトルコ大国民会議を招集して新憲法を制定。
翌年、イギリスの支援を受けてアンカラに進撃して来たギリシャ軍を撃退した(トルコ=ギリシャ戦争)後、1922年、オスマン=トルコ帝国600年の支配制度スルタン=カリフ制を廃止して、トルコ民族国家としての再生を図った(トルコ革命)。
(5) ペルシャ(イラン)でも、イギリスの半植民地状況を排してレザ=ハーンが、1925年ペルシャ国民会議の推戴(すいたい)をうけて正式に新国王として即位し、これによってペルシャ民族国家としての再生が図られた。
(6) また、大戦後トルコの領土解体によってイギリスの統治下に入っていたヨルダン(1923)、イラク(1932)も、反英的な独立運動が激化し独立した。
(7) 中央アジアにおいてはネパールが、領土の著しい侵食を受けながらも、イギリスとの粘り強い戦いの末、1923年、ついにイギリスと友好条約を結んでイギリスにネパール独立を認めさせた。
(8) この他、トルコの勢力圏にあった北イエメンが1918年にトルコより独立し、またアラビア半島が、1932年チベットが清朝から独立を達成した。
(9) このようなアジア民族の独立がにわかに起こって来た背景には、第1次大戦より10年前に起こった日露戦争における日本の勝利(1905年)があった。
(10) 1905年ペルシャ(イラン)の新聞は、テヘランへの日本公使館の設置、日本将校の招聘(しょうへい)、日波貿易の促進を力説した上で「強きこと日本の如(ごと)く、独立を全うすること日本の如くならんために、ペルシャは日本と結ばねばならぬ。日波同盟は欠くべからざる必要となった」と論じた。
その後、ペルシャ、トルコ、エジプトなどで大衆(だいしゅ)的な立憲運動が広範に広がっていった。
当時の中近東には、日露戦争の勝利でアジア唯一の立憲君主国として欧米と対等の地位に立つに至った日本に対する非常な憧れがあり、自分たちも日本のように欧米の侵略をはねのけ、強い立憲君主国に脱皮していかねばならないという、独立精神がみなぎっていた。これが独立国を生む大きな原動力となったのである。

(2)東欧の独立状況とソ連の中国大陸進出への主力転換

(1) 一方東欧においては同盟国のドイツ・オーストリアが敗北し、しかも連合国側であったロシアが戦争途中で革命によって倒れたため、これらの国の支配下にあった東欧の諸民族が、1918年ににわかに独立した。
この東欧の独立は第1次大戦後のパリ講和会議の重要な議題となり、連合国側の承認・支持するところとなった。
(2) ロシア革命によって誕生したソ連は、当時は革命軍と反革命との抗争、メンシェビキとボルシェビキとの権力闘争、諸外国の干渉などで、自国の国力を回復させることに懸命で、諸外国の共産化を目指すまでの十分な余裕がなかった。
1918年ロシアの崩壊によって独立したリトアニア、ラトビア、エストニアはそれぞれ国内でソ連の赤軍・共産党との抗争が続いたが、結局赤軍・共産党の敗退により1920年ついにソ連はこれら3国の独立を認めざるを得なくなった。
またハンガリーでも1919年に一時ソビエト共和国宣言がなされたが1年もしないうちにその政権は崩壊し1920年には王制が復活した。
また1920年ポーランドはウクライナのキエフに駐留していたソ連の赤軍に攻撃をかけポーランド=ソ連戦争を起こしたが、このため赤軍は後退を余儀なくされ、1921年同戦争は終結した。
このように東欧の共産化を目指そうとしたソ連の戦略は、国内の余裕のなさと東欧の独立機運によって挫折した。
(3) このため国力を回復してからのソ連の共産化政策は、主に中国大陸に向けられることとなった。
後にも述べるが、この中国大陸へのソ連の主力転換の政策が、大東亜戦争の大きな原因となった。
(4) なお東欧に次々に独立国が誕生した背景にも、日露戦争の影響が少なからずあった。
特にロシアの支配下にあったポーランドは日露戦争が勃発しロシアの敗報を耳にしては大いに喜び、旅順陥落後の1905年1月には一群の労働者がロシア皇帝に対して独立許可の請願を提出するために首都ペテルブルクに出向した。
この時、軍隊の民衆への一斉射撃によって3千人以上の死傷者が出る「血の日曜日事件」が惹起(じゃっき)した。しかし、これを機ににポーランドではロシアの苛酷な武力弾圧にもかかわらず、公然とロシアに反旗を翻(ひるがえ)す独立運動が広がっていった。
(5) また、同じロシアの支配下にあったアジア系民族フィン人の国フィンランドにおいても日露戦争を機に独立運動が勇躍(ゆうやく)と起こり、東欧より一足早く1917年に独立を達成した。

(3)植民地支配の対象として最後に残された中国大陸
−イギリスの中国大陸介入強化の原因となった3C政策の後退

(1) ここで、これまでの世界の植民地状況を概観してみると、まず南北米大陸が原住民の死滅を引き起こすほどに植民地支配され尽くされ、次にはインド全土、東南アジア、オーストラリア、オセアニアが、さらにはアフリカが植民地支配され尽くされた。
かくして欧米にとって新しい植民地支配の可能性のあった地域は、中近東・中央アジア・東欧・中国大陸だけであった。
(2) しかし。前述したように中近東・中央アジア・東欧の独立状況が現出することによって可能性のある地域はさらに中国大陸だけに限定された。ここに欧米列強が第1次大戦後、中国大陸に一層介入強化していった背景があった。
(3) とりわけイギリスは、スエズ運河を守るための重要拠点であるエジプトのカイロと、中近東・中央アジアでの勢力圏、支配圏を強固にするいわゆる3C政策を推進していただけに中近東・中央アジアの独立は大きな痛手であった。
(4) それにまして3C政策の1つの拠点であるインドのカルカッタにおいては、これも日露戦争の影響を受けて1905年ベンゴール州で始まったインド国民運動が、ガンジーを中心とするインド国民会議派によって広範な独立運動に発展し、これがイギリスにとっては大きな悩みの種になっていた。
(5) これに加えイギリス自治植民地の「事実上の独立」もイギリスにとっては大きな痛手であった。
1934年ウェストミンスター憲章が、南アフリカ自治植民地にも適応され、事実上の独立となったが、これは3C政策の拠点の1つであるケープタウンの後退につながるものであったので、これもイギリスにとっては大きな痛手であった。
(6) このようにして3C政策の拠点のいずれも危うい状況にあり、第1次世界大戦直前に頂点に達していたイギリスの全世界的な植民地構造は、大きく揺らぎはじめ、砂上の楼閣のごとく一気に崩れ去る様相すら呈していた。
こうなれば、まさにイギリスの死活問題であった。ここにイギリスが特に第1次世界大戦後、諸列強と共に中国大陸への介入に執拗に執着した原因があった。

(4)大東亜戦争の原因となった欧米列強の中国大陸への介入強化

(1) イギリスの中国大陸への進出は、アヘン戦争前後より始まり、第1次大戦には鉄道の敷設、管理を中心に中国大陸の広範な範囲に及んでいた(地図8参照)
フランスは、20世紀末にはインドシナの植民地支配を確立し、中国南部地域と仏領インドシナとを結ぶ鉄道を敷設することによって、中国南部地域に自らの勢力圏を拡大していった。
(2) 一方、アメリカは、万里の長城以南が、英仏の勢力圏で占められていたため、満州への進出に力を注いだ。
(3) また、ロシアは、日露戦争以前から満州に広範な範囲で鉄道を敷設し、満州における勢力圏を誇示していた。
日露戦争の敗北とロシア革命による帝国の崩壊によって、一時その勢力が後退したものの、前述したようにやがて国力を回復した共産国家ソ連が、世界革命を目論(もくろ)んで中国大陸、特にモンゴル地域における共産化に主力を注ぎ勢力を盛り返して来た。
(4) 以上のように各国は、争って中国内部の諸勢力と癒着(ゆちゃく)し、中国大陸を自らの勢力下に収めようと懸命であった。
(5) すでに述べたように列国の中国への介入強化は、それまで約450年間続いて来た欧米の世界植民地支配の最後の行き着くところであった。
彼らの植民地主義は、アジア、アフリカ、南米大陸の有色民族を犠牲にしてはじめて自らの繁栄が成立するという極めて依存性の強いものであったから、中国大陸を手放すということは国家の命運に掛けても到底考えられないことであった。
(6) そして、欧米諸国は背後で中国国民党及び中国共産党を支援し続けて日本との「代理戦争」を続行せしめ、中国人と日本人とを半永久的に戦わせてまでも自らの利権を獲得しようとしたのである。
日本が中国大陸において平和的紛争解決に努力を重ねながらも、その解決不能の状態に陥(おちい)り、ついに大東亜戦争の開戦を決意せざるを得なかった原因は、このような有色人種を自らの利権獲得の「道具」としてしか顧みることのなかった欧米の植民地主義の体質にあったのである。

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