松井家の祖先

松井家の人々の写真 松井石根大将、台湾軍司令官時代の写真(昭和9年3月)
(上写真)松井家の人々 前列(左3)父武圀、(左4)母ひさ、(左1)長男武節、後列(左4)6男石根、(左5)7男七夫(のち陸軍中将) 台湾軍司令官時代(昭和9年3月)

 松井石根(まついいわね)は、明治11(1878)年7月27日、父武圀(たけくに)、母ひさの間に6男として生をうけた。
 ひさは名古屋藩士正木宗兵衛の長女である。
 松井家は代々武将の家柄で、祖先は清和源氏の出と言われる。
 その祖、松井信薫(まついのぶしげ)は、静岡県二俣(ふたまた)の城主である。
 『遠江風土記』によると、松井左衛門亮信薫(まついさえもんのじょうのぶしげ)は、静岡県伊野郡各和村(現在の掛川市)に、天庵一貞(てんあんいってい)和尚を招いて、私領を寄進し、天竜院を開山せしめたとある。
 享禄(1528)元年のことで、今の天竜院がそれである。
 しかし、信薫は天竜院を創設した翌年の2月、二俣城で病死し、自ら開山した天竜院に葬られた。
 法名を「天竜院殿心応正前大居士」と称した。
 そのあと二俣城を継いだのは、弟の松井兵部少輔五郎八宗信(ひょうぶしょうすけごろうはちむねのぶ)である。
 宗信は、永禄3(1560)年5月年、かの有名な桶狭間(おけはざま)の戦いのとき、今川義元の先鋒隊の隊長として、手勢200余騎をひきいて三河の鷲津、丸根の砦を攻め落とし、さらに進んで田楽狭間(でんがくはざま)に義元を迎えるべく設営万端を整えた。
 あいにくこの日は、夕刻から風雨いっそう激しくなり、ついに暴風雨となった。
 この暴風雨をついて攻め入ったのが織田信長である。
 剽悍(ひょうかん)な信長は、決死の手兵を率いて勝負を一挙に決せんと、間道をまっしぐらに義元の本陣に突き込んだ。
 油断していた今川勢は、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)してなすところを知らず、信長の臣、服部小平人(はっとりこへいた)、毛利新助(もうりしんすけ)らが義元に迫ってその首級をあげ、今川勢は大敗した。
 この時、松井宗信は、義元をかばって獅子奮迅(ししふんじん)したが、一族200余名と共にことごとく討死(うちじに)した。
 宗信も義元と同様、首級をあげられた。
 ときに5月19日、世に言う「桶狭間の戦い」である。
 私は昭和58(1983)年7月、この田楽狭間を訪れた。
 私を案内してくれたのは、愛知県大府市在住の加古石根(かこいわね)氏である。
 この「石根」という名は、彼の父が日露戦争のとき松井の部下として首山堡(しゅざんぽ)で戦い、松井中隊長の人柄に心服し、その名をそっくり頂戴してつけたのだという。
 田楽狭間の池のほとりに、長楽寺という大きな寺がある。
 山門前に「今川義元、松井宗信戦死之處」という石柱がある。
 山門を入ると右手の灌木(かんぼく)の中に「桶狭間合戦供養塔」があり、その下に首洗いの池がある。
 「御霊水跡」の標札と、「今川義元公首検証之處」という碑がある。
 住職は不在であったが、品のいい老婆がやさしく迎えてくれた。
 本堂の須弥壇(しゅみだん)の左側に、今川義元と松井宗信の木像が2個、ガラスの箱の中に安置されていた。
 高さ50センチほどの小さな木像であるが、義元は笏(しゃく)を持つ狩衣姿で、顔も武将というより、おだやかな色白の公卿(くげ)風である。
 これにくらべて宗信は、いかにも威張っているが、どこかユーモアを感じさせる。
 その2つが仲良く並んでいた。
 その下のガラス戸の中には、松井石根大将の「安天命」(天命に安んず)と肉太に揮毫(きごう)した横額があった。
 老婆は応接室で茶を点じながら、松井大将がときおりお見えになり、ねんごろな供養をなさいました。
 その頃はこの寺も昔のままでした・・・・・・と昔をなつかしむ風であった。
 現在はこの寺も、あたりの風景も、すっかり現代風に変貌し、永禄の頃の面影はどこにも見られなくなった。
 宗信の墓は桶狭間山上にある。
 名古屋市東区に《武平町》という町名がある(現在の東区泉)。
 ここは松井武兵衛重親(ぶひょうえしげちか)の家敷跡のあった町である。
 松井家の祖先で、松井家中輿の祖といわれ、その墓は「大光院」にある。
 尾張藩の藩祖徳川義直公が甲斐より転じて、尾張62万石の主となり、金鯱(きんしゃち)城を築いたのは慶長15年のことである。
 当時の名古屋は那古野庄(なごのしょう)といって、一面茫々(ぼうぼう)たる雉子(きじ)や猪(いのしし)の出る樹木や草原の丘陵地帯で、政治の中心は清洲にあった。
 この清洲の城下町をそのままそっくり名古屋に引っ越すにあたって、御普請奉行として“町割”をしたのが松井武兵衛であった。
 “町割”というのは、社寺地、武家屋敷、町人、職人町などを区画し、清洲にある何町はどこに移すという風に、割り当てることである。
 今日の名古屋を中心とした大名古屋市の基礎はこのとき作られたと言われる。
 それだけに士農工商の階級制度と個人的利害が錯綜(さくそう)するたいへんな仕事であったに違いない。
 武兵衛は藩公の信任厚く、その公平な取り図らいと、温厚な人柄は、藩士からも町人からも敬迎されていた。
 武兵衛重親の墓は名古屋市「大光院」にある。
 戦前の名古屋市東照宮の《なごやまつり》には、東照宮の御神輿(おみこし)を先頭に、松井武兵衛着用の具足がかならず供奉したものであると言われる。
 つまりその人柄と業績は、昭和の代まで憬慕(けいぼ)されたのである。
 松井武兵衛は名古屋市史に欠かす事の出来ない人物である。(武兵衛町はのち改め武平町と称した)

 父の武圀(たけくに)は8男4女の子福者であったが、明治維新に遭遇し、家禄(600石)は召し上げられ、ご多聞にもれず尾羽打ち枯らした貧乏士族で、官吏(かんり)となったが、家計のやりくりに苦労した。
 その苦労がたたってか、大勢の子供を残して、日露戦争の前年、明治36(1903)年9月30日、名古屋市白壁町で病没している。
 行年わずか59歳であった。
 母ひさの苦労もさることながら、長男武節が早くから父親に代わって弟たちの面倒を見たという。
 女子は、長女、次女、三女とも不思議に1〜6歳の幼児死亡である。
 4女のえん子のみは千葉県佐倉町の野崎家に嫁し、23歳で死去している。
 次男の茂丸も4歳で死亡している。
 3男の三彦がもっとも長命で74歳、敗戦の年の昭和20年3月、鎌倉で病没している。
 4男復也は北海道開拓をこころざして根室に渡ったが、不幸にも22歳の若さで没している。
 5男の国馨(くにか)は太田家を継ぎ、名大工科を卒業し、鬼怒川電気株式会社取締兼技師となった。
 行年59歳。
 8男の八郎も若干18歳の若さで夭逝(ようせい)している。
 石根(いわね)は6男、七夫が7男である。
 牧野小学校を卒業すると、共に学資のいらない陸軍幼年学校に入れられた。
 2人とも成績は抜群であった。
 石根陸士(陸軍士官学校)2番で恩賜(おんし)の銀時計組、陸大(陸軍大学)では首席の恩賜の軍刀を授与されている。
 石根は陸軍大将、七夫は陸軍中将まで昇進した。


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