松井石根小伝
松井が生まれた明治11(1878)年という年は、明治維新終幕の大転換期であった。
日本を2つに分けての大戦争であった西南戦役も終わり、西郷隆盛は城山で討死にし、木戸孝允は病死し、そして大久保利通は暗殺された。
時代は大きく移り変わろうとしていた。
父武圀(たけくに)、母ひさの間に6男として生まれた石根は、芋を洗うような大勢の男兄弟の中で育ったが、兄たちと違って生来小柄で病弱であった。
しかし向こう気だけは強かった。
武圀は貧乏士族で、おまけに8男4女と子供は多く、家計のやりくりはいつも窮々であった。
家系の武門を継がせ、かつは学費のいらない学校へということで、石根とその弟の七夫は軍人にすることにした。
当時東京の市ヶ谷台(旧士官学校前身)に日高藤吉郎、河村隆実ら旧士族らが皇室の特別の恩典をうけて明治18(1885)年に創立した軍人養成の学校があった。
「成城学校」と称した。
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児玉源太郎 |
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松井(右2)の中国国民党要人の家族らとの交遊 前にかがんでいるのは載天仇氏 |
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田中義一首相 |
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中国北方軍閥・張作霖 |
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河本大作大佐 |
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永田鉄山軍務局長 斬殺事件 |
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相沢三郎中佐 |
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永田鉄山陸軍中将 |
(現東京・新宿区若松町に移住)のちに陸軍の逸材参謀本部総長の川上操六大将(4代)、日露戦争を勝利に導いた派遣軍総参謀総長、児玉源太郎大将(7代)が校長として陸軍軍人の育成にあたった名門校である。
石根は12歳のとき上京して成城学校に入学した。
同期に久邇宮邦彦王がいた。
のちに陸軍大将となった林仙之も同期である。
先輩には宇垣一成、寺内寿一、南次郎、菱刈隆といったのちの日本陸軍を背負ったつわものがガキ大将で威張っていた。
全寮制の厳しい校風に耐えて、石根はここで鍛えられた。
明治26(1893)年9月、15歳のとき中央幼年学校に進学、明治29(1896)年9月陸軍士官学校に入学した。
明治31(1898)年に士官学校卒業。
士官学校は第9期卒業である。
9期には陸軍大将が5人輩出している。
稀有(けう)な事である。
松井石根、荒木貞夫、真崎甚三郎、本庄繁、阿部信行の5名である。
前述のように松井は2番で、恩賜の銀時計組である。
続いて陸軍大学に進む。
陸大卒は明治39(1906)年11月の第18期生である。
どうしたものか荒木、真崎、阿部の3人はその翌年の明治40年の第19期卒業である。
松井は1期早く、しかもトップで卒業している。
日露戦争中は、陸大在学中であったが、松井は名古屋の歩兵第6連隊の中隊長として出征した。
しかも最初から有名な首山堡の激戦地に投げ込まれた。
松井の率いる中隊はほとんど全滅の惨劇に遭遇する。
松井自身も太腿(ふともも)部に貫通銃瘡(じゅうしょう)を負って倒れ、後送された。
代わって指揮をとったのは小隊長の市川紀元二少尉(のち中尉)である。
市川は一高、東大の出身で電気工業学士、その人格識見、情熱とともに大業をなすべき人と嘱望された。
彼は敵の堅塁、首山塁の一番乗りを果たし、全軍戦勝の途を開き、奥軍司令官より感状を受けた。
しかるに奉天開戦で惜しくも戦死するが、出身校の東京帝大ではその壮烈な戦死をたたえて、校内に銅像を建立した。
東大内に軍装の銅像が建立されたのは、これが最初であり最後であった。(銅像はのちに静岡県護国神社に移転した)
松井ものちに、この時の戦闘の功により、功四級金鵄勲章(きんしくんしょう)、勲五等雙光旭日章(そうこうきょくじつしょう)を受ける。
戦傷も癒え凱旋した松井は、再び陸大に入り、恩賜の軍刀を拝受して首席で卒業する。
卒業と同時に参謀本部部員に抜擢され、のちフランス駐在を命じられた。
しかし松井の志はすでに陸大時代から中国問題の研究にあった。
特に同郷の東亜の志士、荒尾精(あらおせい)の思想や行蔵を深く敬慕した。
陸軍中尉・荒尾精 ―――
彼はあえて軍籍を離脱して、真に支那(中国)の復興と日支の交易に役立つ青年志士20余名を漢口楽善堂に集め、支那の実情調査にあたらせた、その集約として自ら『清国通商総覧』という大著を刊行し、さらに「東亜同文書院」の前身である「日清貿易研究所」を設立して、東亜の未来に役立つ青年の育成につとめた人物である。
その背後には川上操六将軍の支援があった。
年齢わずか38歳で、台湾の旅舎に「ああ、東洋が、東洋が・・・・・・」と叫んで客死した荒尾の興亜復興の精神こそ、わが生涯のめざす道であると、松井はかたく信ずるようになった。
従来、陸大の軍刀組は欧米の駐在武官となり、それ以下の者は支那関係と相場が決まっていた。
しかし松井はフランスから帰朝すると、自ら進んで北京駐在武官を志望した。
北京の武官として勤務し、さらに上海で勤務、一時参謀本部へ帰るが、まもなくフランス領インドシナ(今のベトナム)駐在を命ぜられ、第一次世界大戦の時はパリにいたが、再び動乱の支那に舞い戻った。
そして上海から南京、漢口と長江一帯を駆け回った。
やがて北京駐在武官として北京、天津等に常駐したが、その頃孫文に接触、陰に陽に孫文の中国革命を支援した。
松井の先輩には、日露戦争のとき北京で活躍した青木宣純中将はじめ、佐藤安之助、坂西(ばんざい)利八郎、橋勇馬、井戸川辰三、宇都宮太郎といったそうそうたる百戦錬磨の、いわゆる「支那通」がおり、民間人では終始孫文と密着してこれを助けた萱野長知(かやのながとも)、山田純三郎(やまだじゅんざぶろう)、岡田有民(おかだゆうみん)、船津振一郎(ふなづしんいちろう)らがいた。
中国側の友人には、孫文を中心に、汪兆銘(おおちょうめい)、胡漢民(こかんみん)、蒋介石、張群、何応欽、宋子文、李択一(りたくいち)、戴天仇(たいてんきゅう)――それに閻錫山(えんしゃくざん)、馮玉祥(ひょうぎょくしょう)、李宋仁(りそうじん)といった地方軍閥までつながりをもつようになった。
続いて大正11(1922)年のシベリア出兵に際しては、浦塩(ウラジオ)派遣軍参謀となり、凱旋するとまた引き返してハルビンの特務機関長を命ぜられた。
松井大将がいかに中国の要人と幅広く、深く、交友関係を持っていたかということについては、会報第10号掲載文を見て頂ければ判然としよう。
松井はハルビンから帰って、福岡の第35旅団長となり、昭和2(1927)年、田中義一内閣のとき再び参謀本部に帰り、参謀本部第二部長の要職についた。
松井の第二部長時代に、2つの特筆すべき事件がある。
その1つは、蒋介石をわざわざ中国から招き、田中首相に引き合わせたことである。
これは後述するように、松井と張群の演出によるものである。
日本は蒋の北伐を援助して、関内(万里の長城以南)統一を助ける。
そのかわり、満州国の開発は日本に一任するという密約がこのとき田中・蒋会談で合意に達するのである。
これは中日外交史に画期的意義をもたらすとして注目されたが、残念なことに田中内閣の桂冠(けいかん)で水泡に帰した。
いま1つは、昭和3(1928)年6月4日に起きた張作霖爆死事件である。
松井は、これを行った河本大作を、いかなる理由があろうとも、今後の軍紀粛清のみせしめのためにも、また内外に対し道義を明らかにする意味からも、厳罰に処すべしと主張し、田中首相に進言した。
首相もその正論を受け入れて一旦は決意するのであるが、その頃台頭しつつあった革新的青年将校の集団の圧力に屈服して、うやむやに事件を葬り、そのため天皇の叱責(しっせき)を受けて、内閣は瓦解(がかい)するのである。
松井は、第2部長から善通寺の第11師団長となる。
善通寺は、かつて乃木大将が師団長をつとめたところである。
松井は心から乃木の人格に傾倒していた。
その乃木にならって、この頃から漢詩を本格的に勉強するようになった。
乃木の詩友、服部擔風(はっとりたんぷう)に私淑(ししゅく)し、擔風の添削をうけた。
乃木と松井は、共に漢詩をよくしたばかりでなく、乃木も松井もいったん現役を退き、予備役になってから軍司令官に親補されている点も、悪戦苦闘のあげく部下を多く死なしめ、「愧(は)ず我れ何の顔(かんばせ)あって父老にまみえん、凱旋今日幾人か還える」と乃木は詠歎(えいたん)し、松井もまた「何の貌(かんばせ)あって生還す老痩骨(そうこつ)、残骸誓って英霊に報いんと欲す」と感慨をこめて詠っている点、両者とも凱旋後は一村夫士となって仏陀に帰依(きえ)し、部下将校の菩提をとむらい、ひたすら読経三昧の生活にあけくれた点など・・・まことによく似ている。
昭和6(1931)年、松井はジュネーブの一般軍縮全権として使(つかい)した。
このとき松井は「日支両国人が欧州人の前で、あだかも先天的の仇敵でもあるかのように目をむき、歯を鳴らして、いがみ合う。これを西欧人が裁判官でもあるような態度で聞いている。何たる醜態か、アジアのことはアジア人自らが決すべきである。日本と支那は兄弟の国ではないか」。
こうした感想を強く抱いて帰って来た。
孫文の言う「日本なくして中国なし、中国なくして日本なし」この日中和平の大義貫徹のために終生をささげよう!松井はこのとき、そう強く決意したのである。
昭和8(1933)年3月、軍事参事官となり、「大亜細亜協会」創立に参画する。
同年8月、台湾軍司令官に就任し、台湾に「台湾大亜細亜協会」を設立する。
西欧植民地主義からのアジアの解放、アジア人のアジアの建設、アジア王道文化の復興と団結―――かつて孫文が唱えたこの理想を実現すべく、それ以後の松井は、文字通りこの運動に終始ひたむきであった。(第4章、大亜細亜主義参照)
昭和10(1935)年8月12日、軍務局長永田鉄山が白昼陸軍省内で相沢三郎中佐に斬殺されるという陸軍はじまって以来の一大不祥事が勃発した。
これまでくすぶっていた陸軍部内を二分する皇道派対統制派の派閥抗争が俄然(がぜん)表面化し、ついに流血の惨をまねくに、いたったのである。
かねてから松井は、こうしたあるまじき軍部内の派閥抗争や政治介入をいたく嫌悪し、激昂(げっこう)する青年将校の集団行為を厳しく抑えてきたが、この流血の惨を見て、いたく責任を感じ、自ら軍事参議官を辞し、現役を退いた。
昭和10年8月30日のことである。
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