新書『南京事件』の掲載写真について

岩波書店「図書」1998年4月号 笠原十九司(都留文化大学)教授
笠原十九司教授(右上写真)TBS系「NEWS23」平成9年12月15日放送より

笠原十九司

「図書」1998(平成10)年4月号から


 私の書いた「南京事件」(岩波新書、1997年11月発行)のIII章扉写真はキャプションとは異なるものであることが、「産経新聞」(1998年3月1日付、東京版は2月28日付け夕刊)ならびに「諸君!」(1998年4月号。秦郁彦「「南京大虐殺」―――証拠写真を鑑定する」)で指摘された。
 指摘された写真は、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち。国民政府軍事委員会政治部「日寇暴行実録」(1938年刊行)所蔵」というキャプションをつけて掲載したものである。
 「日寇暴行実録」には中国語で「江南農村婦女、被一批一批的押送到寇軍司令部去、陵辱!輪姦!槍殺!」と書かれている。
 日本語に直訳すれば「江南地方の農村婦女が、一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」となる。
 押送は「受刑者・刑事被告人・被疑者を他の場所へ送り移すこと。護送」(広辞苑)の意味であるが、一般にはなじみのない言葉である。
 そのため、中国語原文の後半の意味を汲(く)んで「拉致」という意訳語を使ったのである。
 中国語のキャプションをそのまま引用しなかったのは、写真が婦女陵辱そのものを示すものではなかったからである。
 「日寇暴行実録」は、私が1984年の夏にアメリカのスタンフォード大学のフーバー研究所東アジア文庫で見つけ、上記写真を私のカメラで複写した。
 ハレーションがあるのは、素人の技術ゆえで、秦氏が「諸君!」に書かれたような意図的なものではない。
 しかし秦氏が今年になって調査、発見されたように、上記写真の原版は「アサヒグラフ」(1937年11月10日号)と「支那事変写真全輯 中 上海戦線」(東京朝日新聞社、1938年3月発行)であることを私も確認した。
 したがって今回新たに判明したのは、中国国民政府軍事委員会政治部が、朝日新聞のカメラマンが撮った写真を、撮影した事実と異なるキャプションを付して使ったことである。
 同写真は、秦氏が例示された4つの本の他に、南京の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館にも展示され、アメリカで発行されたJames Yin, Shi Young, Edited by Ron Dorfiman, "The Rape of Nanking : An Undeniable History in Photographs", Innojatire Publishing Group, 1996, Chicago, USA(186頁)にも掲載されたように、これまで中国側で婦女陵辱に関係した写真と信じられてきた。
 今回の秦氏の調査でそれを誤りとする撮影状況が明らかになったことを謝意を表したい。
 同時に、撮影者の熊崎玉樹カメラマン(故人)ならびに朝日新聞社に対しご迷惑をおかけしたことを深くお詫びしたい。
 そして読者には、私の写真史料批判がその誤りを察知するまでに至らなかったことをお詫び申し上げる。
 上記写真は、編集部とも相談して早急に差し替えたい。
 私はこれまで南京事件の写真については、撮影者の判明したものに限定して引用するよう心掛けてきたつもりであるが、なおいっそう自戒すべきであることを痛感した。
 しかし「南京事件」の本文に叙述した日本軍の婦女陵辱の歴史事実が変わらないことはいうまでもない。
 南京大虐殺事件に関する写真史料の最大の障害は、虐殺・残虐写真を撮影、記録する条件が一番あった日本側が「皇軍の威信を損ねる」と、そうした行為と報道を厳格に禁止し、かつ厳重に取り締まったことである。
 いっぽう、南京を攻撃され、占領され、殺害・虐殺された中国側には、写真を撮影できる条件はほぼ皆無であった。
 結局、撮影者や場所が南京と特定できる写真は、南京難民区国際委員会のメンバーや、外国人ジャーナリスト(彼らは1937年12月15日には南京を離れた)、あるいは日本兵が例外的に撮ったもの等に限られてしまう。
 紙面の都合でここでは詳述できないが、従来出版されてきた南京事件関連の写真集に収められたものには、南京の日本兵、日本人が所持していたもので様々な経路で中国側に渡った物少なくない。
 場所や時期を南京と特定できなくても、日本軍の残虐行為を証明する写真には変わりがない場合がある。
 それぞれの写真史料に厳密な史料批判を加えた上で、その写真が意味するものを洞察し、歴史の一部の真実でも見逃さないようにすることも大切である。
 写真史料の問題については、改めて論じたいと考えている。
 歴史学は、史料批判を積み重ねながら、より真実の歴史像に迫っていくことが要求される。
 写真史料も同様に、より検証された写真を用いて歴史の真実を明らかにしていくことが求められる。
 今回の秦氏のご指摘を受けとめて、そのためのステップとしていきたい。

 (かさはら とくし・宇都宮大学・近現代史)


 読者の皆様へ

 新書「南京事件」掲載写真に問題のあることが指摘されました。
 読者の皆様に多大なるご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
 小社としては同書の出品を一時停止し、写真を差し替える措置をとりました。
 お取替えをご希望の方は、岩波書店編集部までご一報いただきたく存じます。
                                                岩波書店

 「図書」1998(平成10)年4月号より

 ※笠原十九司氏は現在、都留文科大学教授です。


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