(4)中国共産党主導による反日戦線の構築(第2次国共合作と抗日民族統一戦線の形成)

 昭和10(1935)年、ソ連・コミンテルンはモスクワでコミンテルン第7回大会を開催し反日団体の結集をはかる「抗日民族統一戦線」の形成を決議した。
 これは直ちに中国共産党によって、政党政派をのりこえて抗日連合軍を組織するよう求める宣言(「8・1宣言」)となって現れた。
 従来より中国国民党は、親日派と親米派の派閥対立があったが、この時期を境に、親日派であった行政院長の汪兆銘が狙撃される事件や、同じく親日派の唐有壬(とうゆうじん)交通部次長が暗殺される事件が起こり、国民党内の親日派は衰退し、国民党の主導権は親米派に握られることとなったのである。
 さらに、昭和11(1936)年、国民党幹部として共産党討伐に携(たずさ)わっていた張学良は、延安で周恩来と会談するにいたり、共産党幹部の葉剣英とも接触して、共産軍に食料や防寒衣や巨額の私財を送るようになり、共産党との関係を深めていった。
 周恩来との会談について張学良は「(周恩来は)抗日の綱領のもとで共産党は国民党と昔日の関係を回復し、あらためて蒋公人の指導を受けると力説した」(「西安事変反省録」)と述べているが、これによって、共産党がいかに国民党の反共政策の転換を望んでいたかを知ることができる。
 共産党にとっては反共産主義で一致している日本政府と国民党政府を分裂させ、国民党政府を味方につけて反日戦線を形成することはまさに死活問題であったのである。
 張学良と共産党との関係が深まっていく中、昭和11(1936)年12月、蒋介石は張学良に共産党討伐を督励するため西安に赴(おもむ)いたが、逆に張学良に拉致監禁された西安事件が起きた。
 拉致された蒋介石は釈放の条件として、共産党討伐の停止、逮捕されていた抗日運動家の釈放、対日抗戦の早急な準備などの8項目を要求され、「抗日民族統一戦線」の形成に合意させられた。
 蒋介石の処遇については、当初中国共産党は蒋介石の処刑を主張していたものの、ソ連・コミンテルンは蒋介石の釈放して、国民党と連合して抗日統一戦線を形成するよう指令した。
 蒋介石釈放をめぐっての調停工作に当たっては、イギリス、アメリカ、ソ連、中共の間で同一歩調がとられ、利害が一致する中で抗日統一戦線が形成されていったのである。
 事件後、国民党の外交部長で親日家の張群が罷免されるとともに、国民党から共産党に毎月50万元が支給されるようになり、国民党は次第に反日色を強めていった。


次のページへ