(5)支那事変に至るまでの排日事件

 支那事変にいたるまでに、中国本土では外国への排撃、とくに反日運動が起こされ、我が国は日本人居留民への圧迫に苦慮した。下記に記した表は主だった反日事件の一覧である。

支那事変にいたるまでの反日事件一覧

(大正14(1925)年から昭和11(1936)年まで)

事件・事変 年 代 事件の内容
ストライキ
暴動事件
大正14(1925)年 中国総工会(中国共産党を中心とする労働組合)は、日華紡績、豊田紡績、青島紡績などでストライキを続発させた。
済南事件 昭和3(1928)年 中国国民党および中国共産党による北伐の過程で、国民革命軍が山東省済南市に入城した際、国民革命軍の兵士が邦人経営の商店で略奪行為を行った事をきっかけに、治安に当たっていた日本軍との間に衝突が起こった。
 その衝突での日本の被害は、日本軍の戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400であった。
不法拘留 昭和3(1928)年 日本守備隊10数名が支那軍によって不法拘留される事件などが数件起こった。
射殺事件 昭和4(1929)年 済南他の地区で、支那保安隊に日本兵が射殺され、2名死亡、2名重傷を負う事件が起こった。
長沙暴動 昭和5(1930)年 長沙の日本領事館および附属家屋焼失、商店、病院、日本人小学校など全部略奪、商社倉庫、海軍宿舎など一部が略奪された。共産軍による長沙市の被害総額は7千万ドルを超えた。
被害見積もりは当時の英国商社が出したもので、現在の貨幣価値にすれば約1700億円に相当する。
昭和6(1931)年9月から12月まで商社、商店、個人が受けた略奪、暴行被害数は200件を超えた。
通学児童に対する妨害ないし悪戯は700件に達し、第1次上海事変が起こる緊迫した状況が生じていた。
第1次上海事変 昭和7(1932)年 1月18日、中国人暴徒に日本人僧侶が殺害される事件が起こった。
これに怒った日本人居留民が抗日運動の絶滅を訴え集会とデモを行い、中国人民衆と対立した。
中国第19路軍が戦闘準備を命令する一方、日本海軍が上海に入港。19路軍は上海市内に陣地を作り、日本海軍陸戦隊と対峙(たいじ)した。
中国側の機銃射撃により戦闘が開始され、この戦闘に陸戦隊ほか日本陸軍約2万人が投入され、約2ヶ月間にわたる激戦が繰り返された。
19路軍の撤退で戦闘は終結したが、日本側戦死者は約800人、負傷者は2千数百人だった。
親日新聞社長暗殺事件 昭和9(1934)年 天津にて、親日的と言われた新聞社「国権報」、「振報」の社長が暗殺された事件。
欒(らん)州事件 昭和10(1935)年 欒州駅を下車した日本軍人らが、群衆の中の支那人より射撃を受け重傷を負った事件。
中山水兵射殺事件 昭和10(1935)年 上海海軍特別陸戦隊の中山一等水兵が兵舎付近で射殺された事件。
秘密結社藍衣社の一分派の犯行とみられたが、中国側は容疑者を無罪にしようとした。
○昭和10(1935)年1月から5月までに大小50の反日事件が発生
成都事件 昭和11(1936)年 四川省成都に領事館を再開しようとしたところ、その取材に赴(おもむ)いた大阪毎日新聞の記者2名が虐殺され、1名が重傷を負った事件。
領事館再開反対派の犯行だった。
北海事件 昭和11(1936)年 広西省北海の日本人商店に凶漢が押し入り店主を殺害。

(長沙暴動の被害見積もりについて)昭和5年当時の7千万ドルは為替レートに換算すると1億4千万円に相当。それを現在の貨幣価値に換算すれば約1700億円となる。(昭和5年の為替レートは1ドル約2円。貨幣価値については消費者物価指数で換算。昭和4年を1として昭和5年で0.84、平成2年で1209、という物価指数に基づいて計算。)


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