主に反日写真、南京事件に使用される
ニセ写真についての分析
昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件に始まり、同年8月13日に開始された第二次上海事変から南京攻略戦に大敗した中国。
劣勢に立たされた中国側は欧米からの干渉を引き出す事を目的に、中国はデマ宣伝を開始しました。
そのために日本を悪魔化し、中国人は被害者とに仕立てる為に、デマをラジオで流し、残虐・合成・エロ写真などをねつ造し欧米へと宣伝を行いました。
その一部の写真は今でも中国共産党は愛国教育を行う、歴史紀念館(※中国の抗日紀念館)に展示し、日本を悪魔化し続けているのです。
このため、これらニセ写真に対する真実をここに発表したいと思います。
【1】 当時の中国では、道端でエロ写真や残虐写真が普通に売られており、日本兵に土産として売られていた
1927(昭和2)年に東大を卒業し、逓信省(現在では総務省に統合されたが、一昔前の郵政省のこと)に入省し、日中戦争勃発に際して1937(昭和12)年に上海派遣軍野戦郵便長として従軍した佐々木元勝著『野戦郵便旗』(現代史出版会)に以下の記述があるので引用する。
- 《本殿の方へ進むと兵隊が二、三人出てきて面白いものを挑発したと言う。それは猥褻写真である。見せてもらうと写真は褪せて黄いるくなっており、一人の支那夫人が〔股を開いて見せて〕いる。》174ページ
- 《上海にはエロ写真の問屋があって、秘密に手に渡り頒布されているのである。先夜大場鎮の寺で酒を飲んでいると、少し酔っ払った時、私に見せてくれた二、三枚のエロ写真も同じ経路を経たものであろう。》176ページ
- 《この銀行の裏庭で野戦局の者は支那人にシーサン(先生)、シーサン(先生)と呼ばれ、怪しげな物を見せつけられた。金指輪だとか翡翠(ひすい)だとかエロ写真などである。影のごとく寄ってくるこの支那人は掠奪品や禁制を密売しているのである。十円の金時計でも、値切れば三円にまける。〔先日、嘉定からの帰り、トラックの運転手から私はエロ写真を一組二円五十銭で買ったが、ここなら〕エロ写真も一組五十銭で買える。(中略)エロ写真の出所は一ヶ所と推定される。写真はいつも同じ褐色のハトロン紙に包んである。一つつみに十二枚で山、川、流、蘭などハトロン紙の端に墨書きして区別してある。東洋、というのもある。これは日本のものである。支那人、半島人、ロシヤ人、黒人、ヨーロッパ人、様々な人種が出てくる。二人、三人、一人、四人、いろいろである。この秘密出版の巣窟はどこか。内地から逆輸入されているといううわさもある。日本のは支那人が鬘をかぶって撮影したものだともいう。奇々怪々、まさに心散魂飛の息づまる情炎の万華鏡だる。上海と女、戦争とエロ写真、それはなんと必然一体の結合ではないか。エロ写真は疫病のごとく素晴らしい勢いで蔓延していった。エロ写真を見ると今までそこそこで撮った写真なんか興醒めてしまう。〔エロ写真のほかに戦闘の残虐写真がある。無残な死体のさまざまな写真である。支那女が泣きながら立って下半身裸になっているものもある。これらの写真は日本軍が支那軍かだれが撮影したものかわからない。〕》177〜178ページ
同じように当時の満州におけるエロ写真が売られていた状況を掲載している書籍がある。下川耿史著『日本エロ写真史』(青弓社)に以下の記述があるので引用してみる。
- 《エロ写真もそういうものの一つとして盛んだった。奥野によると、南満州鉄道(満鉄)のハルピン営業所の近くに絵ハガキ屋があったので立ち寄ると、主人が「面白いのがありますよ」といってエロ写真を取り出してきた。そういうのを買う気はなかったので「いらない」と答えると、主人は「日本人はみんなこれを買うのに・・・」といってけげんそうな顔をされたという。エロ写真はそれくらい人気があったのである。》167〜168ページ
- 《この傾向は満州国の成立とともにいっそう顕著になり、彼らにとって日本人は最大のお得意さんとなった。日本の満州支配にともなって、日本人がどっとやってくるようになったこと、それに日本人はアメリカ人ほど金持ちではなかったにしろ、中国人ほど貧乏でもなかったからである。》168ページ
- 《その頃にはエロの度合もエスカレートして、キャバレーでは生の“白黒ショー”が演じられていたし、その男女を連れ出して、ショーそっくりのシーンを“トロイカ”で再演させ、その写真を撮影したり、女性が陰部を露出した写真を撮影することも可能だったという。》168ページ
【2】 当時の満州には、馬賊や匪賊が跋扈しており村や町を襲っており、彼らは捕らえられた後、斬首され首を晒され、それを撮影した写真が現在、日本軍のせいにされている
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